Rochesterで数理政治学を学ぶ

アメリカ政治学博士課程留学サンプル

サブスタンスの授業をどう教えるか

自分ももうすぐTAが始まり、教える側に回る時期に差し掛かっている。基本はFormal Theoryの授業を希望しようと思っているが、1科目はサブスタンスの授業のTAもしておきたいと思っている。そこで、サブスタンスの授業が持つ特有の難しさについて少しばかり考えておきたい。

サブスタンスはメソッドより教えるのが難しい。というのは、メソッドの教科書は数式が多く含まれているため学生にとって自力で理解するのが必ずしも容易でなく、教科書を指定しそれに沿って授業を進める事に価値がある一方、サブスタンスの教科書は基本的に言葉で書かれており自力で理解が可能(またそのように書かれるべき)なので、教科書に沿ってやっていては「自分で読めばいいじゃん」となってしまい授業の価値がなくなってしまうからである。(なお、大学院のサブスタンスの授業は論文輪読が一般的であり、論文は必ずしも自力での理解が容易でないので、授業の価値は確保しやすい。ただしこれにも問題があるがその事は後で触れる事にして、以下では学部の授業を念頭において話を進めたい。)

上記をふまえサブスタンスの授業に価値を生むための策としては、採用される事が多い順に以下の3つがあると思う。

①特定の教科書ではなく様々な文献に依拠し、オリジナルな講義をする

②特定の教科書に依拠し、それを講義で補足・敷衍する

③数理政治学の教科書を使ってサブスタンスを教える

①「特定の教科書ではなく様々な文献に依拠し、オリジナルな講義をする」は経験上最も一般的なスタイルだと思う。日本では参考文献を紹介するのみに留める一方アメリカでは参考文献のリーディングを義務とするという違いはあれど、日本でもアメリカでも自分が見てきた講義のほとんどはこのスタイルをとっていた。このスタイルは、日本におけるゼミの文献講読やアメリカではそれに相当する少人数セミナーといった、特定のトピックについて論文や研究書を用いて教科書よりも詳しく勉強する各論的な授業では有効だと思うのだが、総論的な大講義でこのスタイルをとるのには大きな問題があると思う。それは、初学者である学部生が求めているのは「スタンダードな内容を整理された形で学ぶ」ことであり、「オリジナルな内容を雑多な形で学ぶ」ことになりがちな①のスタイルの授業は、混乱を招くからである。例外として、先生が教科書化を目指して非常に整理されたレクチャーノートを執筆している場合があり、この場合は問題ないと思う。だが基本的に総論的な授業は教科書を用いて行い、①のスタイルは教科書が存在しないような各論的な授業にのみ採用すべきだと思う。

②「特定の教科書に依拠し、それを講義で補足・敷衍する」は、教科書が存在するような総論的な授業にマッチしたスタイルである。このスタイルの授業は教科書の説明をただ繰り返すのではなく、教科書と先生の考えが異なる部分や教科書出版以降の内容を補足したり、教科書の内容に関連しているが教科書には書かれていない研究を紹介したりする事で、教科書に付加価値を付けていく形をとる。この形式は教科書がスタンダードな内容を整理された形で提示する事で学生に全体像を見せつつ、授業で+αの面白い内容を紹介する事で、「学生の勉強のしやすさ」と「授業の価値」という2つの要素を両立する事に成功している。総論的な授業はこの形式で行うのが良いだろう。

③「数理政治学の教科書を使ってサブスタンスを教える」は今まで見た事がないが、自分が将来実践したいスタイルである。そもそもサブスタンスの教科書が経済学のように数理モデルを交えて執筆されていれば、学生にとって自力での理解が難しいため教科書に沿って授業をする事にも意味が生まれる。これに対しては、「理解するのをわざわざ難しくする必要が無い。言葉でアイディアだけを教えればいい。」という意見が予想されるが、私は2つの理由でこれに反論したい。

1つ目は、「言葉だけを使う学習だと、暗記学習になりがち」という点である。そもそも数理モデルとは、言葉だけの議論では論理展開が難しかったり曖昧だったりするため、直観的には中々至れない結論を厳密に導き出すために存在する。したがって数理的なステップを省略して、導出された結果と導出プロセスの概要だけを言葉で理解するというのは、数理的なステップに慣れ親しんだ研究者は省略された部分を自力で補完できるので問題ないのだが、自力で補完できない初学者がそれをすると、結果と導出プロセスの概要を覚える暗記学習になってしまいがちである。振り返ると学部生の時の政治学の期末試験は、いかに授業で話された内容を理解した上で暗記し、数行の問題文を基に暗記した内容を記憶から引き出す事ができるか、という戦いになっていたと思う。実際、法学専攻の友人(現在は法学者を目指している)から、「政治学って暗記科目だよね」と言われた事もあるが、その感想は学部の授業だけを見れば正しい感想だと思う。一方、数理的なプロセスまで含めて勉強すれば、結果を暗記するのではなく問題を自ら解く事ができるようになり、社会に出てからの実際の問題解決に応用する事が可能な、より実践的な知識を身につける事が可能になる。具体例を挙げるなら、ゲーム理論は複数の人間がそれぞれ自分の目標を達成しようと行動した時にどのような結果が予想されるかを教えてくれる極めて汎用性の高いツールであり、これを学ぶ事であらゆる社会現象を自ら分析する能力を磨く事ができるが、ある問題の結果だけを暗記しても他の問題に応用する事はできない。このように、数理的なステップまで含めて教える事で、暗記学習とは対極に位置する実践的な学習が可能になる。これからの時代、暗記に徹していてはAIに仕事を奪われてしまうので、自ら考えるためのツールを身につけていくべきだろう。

2つ目は、「数理を通じて理論を体系的に学習できる」という点である。サブスタンスの教科書はテーマごとに整理はされているものの、章の中のトピック間の関係や、章の間の関係は必ずしも明らかではない。その意味で、整理はされているが体系性には乏しく、教科書というより辞典に近い。それに対して例えばミクロ経済学の教科書は、「まず消費者の意思決定を学び、それとパラレルな構成で生産者の意思決定を学び、両者が交わる形で市場の均衡を学び、しかしそうした理想的な市場が失敗するケースとして外部性や独占の問題を学ぶ」という形で体系的に理論が展開され、それらのトピックの間の相互関係は数式を用いてクリアに説明される。このような体系性は、今の政治学のサブスタンスの教科書には存在しない。だが数理政治学の教科書は、「まず選挙でどのような政治家が選ばれるかを学び、次に政治家がどのように政策を決定するかを学び、最後に政治家から委任された官僚がどのように政策を実施するかを学ぶ」という形で、体系的に理論を学ぶ事ができる。このように、政治の全体像を体系的に勉強していく上で、数理政治学の教科書は非常に有益である。数理政治学は今のところ特殊な分野という扱いを受けており、通常のサブスタンスの講義ではこうした数理的に体系化された学習は退けられているが、ミクロ経済学のように本来は数理的な理論学習が政治学のスタンダードになるべきである。

こうした主張に対しては「政治学は文系学生が集まるので、数学を使うと付いてこられる学生が減る」という声もあるかもしれない。だが学部生に対して難しい数学を教える必要は全くなく、高校数学レベルで学べる数理的なツールを教えれば十分である。しかも、高校数学というと国立大の2次試験や私大の独自試験の難しい問題のイメージに引っ張られて苦手意識を持っている文系学生が多いが、1次試験レベルの基本的な問題が解ければ全く問題ない。1次試験レベルの高校数学を使った学習に付いてこられる学生は、決して少なくないと思う。問題は数学力ではなく「自分は数学が苦手という思い込み」の方である。自分が教員になったら「大学入試1次試験レベルの基本的な高校数学さえできていれば全く問題ない」という点を強調した上で、数理政治学の教科書を使いそれに補足する形でサブスタンスを教えたいと思う。もしアメリカで就職した場合はそのレベルの数学さえ怪しい人も多いかもしれないが、Political Scienceの本場であるアメリカでこそ政治学の数理的体系化は推進されるべきであり、トップスクールだけでもこの改革は進めていくべきだと思うので、その一端を担えるのが理想である。

最後に大学院の授業についてだが、論文輪読は体系的な学びが得られているという感覚が薄く、中身をしっかり学ぶには講義の方が優れている。したがって論文を報告・議論するトレーニングを目的に、体系的な講義とは別に論文輪読セミナーを作る方が良いと思う(実際ロチェスター大学経済学部はそうなっている)。Oxford Handbookなど大学院レベルのサブスタンスの教科書は一応存在するにもかかわらずあまり授業で使われる事がないのは、やはり「言葉のみで書かれているため学生が自力で読むことができ、わざわざ授業で扱う必要がない」という学部レベルの教科書と同じ問題を抱えているからだと思う。したがって、経済学の大学院レベルの教科書と同じように、数式も交えながら学べるタイプの教科書が政治学でももっと増えるべきだと思う。そうした授業で使える教科書に沿って体系的な講義が大学院でも行われるようになれば、政治学も分野として経済学にキャッチアップしたと言えるのだろう。私もキャリアの後半で大学院レベルの数理政治学(特に民主主義)の教科書を書く事を目標に、授業をしていきたいと考えている。