Rochesterで数理政治学を学ぶ

アメリカ政治学博士課程留学サンプル

Wallis Political Economy Conference 2026

今年で5度目のWallis Conferenceである。通常、同様の小規模学会はプレゼンターとDiscussantにしか渡航費が支給されないが、この学会は参加者全員に渡航費が支給されるという太っ腹な学会である。大学予算が減少する中でもあえてそのスタイルを貫くほど、ロチェスターを象徴するイベントだという事だろう。なお、プレゼンター・Discussant・卒業生以外の招待者がどのように決まっているかは謎である。毎年来ている先生もいるし(毎年同じ席に座りがちなので分かる)、新しい先生もいる。参加者のマジョリティは経済学者なのだが、ロチェスター政治学部の先生達の個人的なネットワークに基づくとすると奇妙な話である。ちなみに卒業生についてはトップスクールのテニュア(トラック)教員ばかりなので、将来この学会に呼ばれる事が目標である。

さすがに5度目となるとブログに書くネタが無くなりそうなものだが(実際3回目と4回目は書いていない)、今回は今までとは違うスタンスになったので書いてみる事にする。すなわち、「学会の主目的はネットワーキング」という事は今まで散々先生・先輩諸氏から言われて知っていたものの、ようやく自分もそのフェイズに入ったように感じる。これまでのWallis Conferenceと言えば、誰も知り合いがいないのでボッチ飯を食べながら報告論文の予習をするというのが恒例の過ごし方だったが、今回はランチタイムや休憩時間に積極的に人と話せるようになった。なぜそのような変化が起きたかというと、過去の学会を通じて知り合いが増えたからである。初対面の人に話しかけるのは非常にハードルが高いが、知り合いに話しかけるのはハードルが低い。あわよくば同席しているその人の知り合いを紹介してもらえたりして、無理ない形で少しずつネットワークを広げる事ができる。そうした好循環が生まれ始めるフェイズに、自分もようやく突入できた実感があった。

では最初に知り合いを作るにはどうすればいいのかという話が問題だが、これは大きく①先生の紹介、②過去のビジター、③学会のDiscussant、④学会での質問、⑤学会での1対1ミーティングという作戦があると思う。

①先生の紹介:外部の学会では指導教員が出席しておらず独力でのネットワーキングをせざるを得ない事も多いが、Wallis Conferenceのように自分の大学で開催される学会の良い所は、指導教員がその場に確実にいることである。今回自分は、指導教員の元教え子で自分との研究関心が最も近い人とお話することができた。指導教員とその方が話されている付近で不自然に立ち止まっていたところ、無事に先生が気づいて紹介してくださったのだが、直後に先生が退席してしまい、慌ててジョブマーケットペーパーの要約を話したり、パッと思いつく質問をいくつかしたりした。お二人が話している所に混じろうと呑気に考えており心の準備が不十分だったため、何を話せばいいか分からず沈黙が10秒くらい続いてしまう(実際は5秒だったかもしれないがそのくらい長く感じた)事が何度かあった。就活本番でこのような事が無いよう、とっさに誰相手にでも聞ける(それでいて変に思われない)質問をもっと用意せねばなるまいと思った。

②過去のビジター:数理政治学者がワークショップでロチェスターを訪れた時、自分は必ず朝食や1対1ミーティングに申し込む事にしている。(朝食は毎回、1対1ミーティングは一定程度関心が近い場合。)ざっとカレンダーを見たところ、今まで18人のビジターと話していたようである。数理政治学という分野の狭さを考えると、全数理政治学者の数%とは既に知り合いと言っても過言ではないだろう。(経済学者を除き政治学者だけに限定すれば、10%を超えていてもおかしくはない。)この中で唯一低学年からでも始められるネットワーキングの手段なので、コツコツ頑張ってきて良かったと思う。

③学会のDiscussant:学会のDiscussantでお世話になった方は、自分の論文を読んでくれた事があるためビジター以上に自分を覚えてくれている可能性が高い。しかもDiscussantに割り当てられるくらい関心も近いので、5つの手段の中でも最も重要なルートだと思う。外部の学会に参加するのは時間的・体力的に(時には金銭的にも)中々大変だが、最も強いネットワークがそこから始まると考えれば報われるものである。学会についてのアドバイスで「とにかく行く事が重要なので倍率が低そうなセクションに応募しろ」と聞いた事もあるが、私は個人的に反対である。自分がネットワーキングをしたいと思う人達が集まるセクションのDiscussantと知り合う事が、学会に参加する最大の意義だと思うからである。

④学会での質問:学会で知り合いを作るもう一つの手段は、報告者に質問する事である。以前にも書いたように、APSAのような大規模学会では未完成論文が報告される事も多く予習は困難、報告時間も短いので短時間で内容を理解するのは困難、という良い質問をするのが困難を極めるシチュエーションではあるが、その中でも何か良い質問を捻り出す事ができれば、報告者とのネットワーキングが可能である。実際自分は、昨年のAPSAで話しかけその後メールのやり取りもした方と継続的関係を築く事ができ、今回の学会でも話す事ができた。Wallis Conferenceのような小規模学会では完成論文が多く予習が可能、報告時間が長く理解もしやすいという点で、よりチャンスが大きい。ただ今回は自分の関心に近い論文が1本しかなく、それを通読して臨んだものの経済学者のテクニカルな論文(無限期間のゲームで、論文の性質上短い期間のトイモデルで直観を与えられたりもしていない)なため良い質問を思いつく事ができなかった。関心の近い指導教員の一人が質問しているのを聞いて、なるほどと思った。こういうテクニカルな論文に対しても良い質問が思い浮かぶようになると、自分も一人前になれたと言えると思う。

⑤学会での1対1ミーティング:これは就活本番で実行しようと思いまだ実践できていないのだが、就活中の学会と言えば1対1ミーティングの嵐である。書類選考に通りやすくするため、書類選考に先んじて自ら1次面接を申し込んでいく作戦と言える。

以上の手段を駆使して少しずつ知り合いが増えたことで、「数理政治学の学会であれば少なくとも1人はその場に知り合いがいて、まずはその人に話しかける事からきっかけを掴める」という状態が形成できた。まだまだネットワーキングは初期段階だが、就活本番に向け順調な滑り出しだと言えると思う。

TAオフィスアワーとは何か

大体どの授業にも、教員と同じくTAにもオフィスアワーがあるのが通常である。だがこれが一体何を目的とした時間なのかは、意外と判然としない。ただ何となく「TAに質問する時間」というだけで、何に関する質問が意図されているかははっきりしないのである。教員が目的を明示する場合もあるかもしれないが、少なくとも今まで私が受けた・TAをした授業では、一度も明確に説明された記憶がない。結果として、私自身学生としてTAオフィスアワーを活用した記憶もほとんどないのである。これは非常に勿体ない話だろう。そこで今回は、TAオフィスアワーとはいったい何に関する質問をする時間であるのか考えてみたい。(なお、コーディングを含む宿題が沢山出るタイプの授業では、TAオフィスアワーはコーディングの質問をする時間という位置づけが比較的明確だと思うので、今回はそれ以外の授業を対象とする。)

まず考えられるのが、「授業に関する質問」である。先生に質問するのは怖いので(とりわけ先生があまりフレンドリーな先生ではない場合)、比較的話しかけやすいTAに質問したいという需要はあるかもしれない。とはいえ、授業内容についてはやはり教員に直接聞く方が確実だし、教員オフィスアワーの主目的がこれだと思うので、TAオフィスアワーの主目的には当たらないだろう。

となるとやはり「宿題に関する質問」というのが答えになるのだろうが、問題は宿題の何についての質問かである。提出済みの宿題については別途TAセッション(またの名をRecitation)があり、こちらで解説、質問に答える事になっているので、TAオフィスアワーは素直に考えると「提出前の宿題に関する質問」をする時間という事になるだろう。(ただし、提出済みの宿題についてTAセッションでは分からなかった事を追加的に質問したり、あるいは採点に納得がいかなかった問題に関して採点理由を個人的に質問したりという用いられ方もあると思う。だが、こういうTAオフィスアワーの使い方をする学生は経験上少数派で、これだけだとTAオフィスアワーが十分活用されているとは言い難い。)

ここからが本題なのだが、「提出前の宿題に関する質問」というと、考えられる質問は「問題の意味が不明瞭な場合のclarification question」と「解けなかった問題についてのヒントの要求」という2択になる。私は今まで、基本的に「前者のclarification questionにしか答えない」事にしていた。というのも、一部の生徒にだけヒントをあげるのは不公平だと思っていたからである。ヒントをもらいにくる権利は全員に平等に与えられているのだから公平であるという見方も確かにできるが、自分で考えるのを面倒がって図々しく沢山ヒントを要求する学生と、なるべく自力で取り組んだ方が自分のためになるという事が分かっていてあまりヒントを要求しない学生とで、後者が不利になってしまうのはいかがなものかと思っていたからである。だがこれだと質問に来る学生は少ないので、イマイチTAオフィスアワーを活用できていないと感じていた。

そこでヒントをあげる方向も検討し、「誰かにヒントをあげた場合、同じヒントを全員に一斉送信でメールする」という形で公平性を保とうとした事もあった。だがこれは手間もかかるし、教員の意図に沿わない形でヒントをあげすぎた場合、大目玉を食らうというリスクがある。(それで実際に怒られた事は一度もなかったが。)そのため、全員にヒントをあげないのも、全員に同じヒントをあげるのも、両方とも平等ではあるが、公平性を確保する手段としてベストな手段ではないように思われた。

そして思い至ったのが、「結果的に一部の人にヒントをあげる事に、何らかの正当性があればよい」という考えである。それに対する一つの答えとして、「宿題に早く取り組むインセンティブ」という案を思いついた。毎週提出するタイプの宿題は、スムーズにいけば丸一日もあれば終わる事が多いと思うが、詰まってしまうとズルズルと時間を浪費してしまう事もある。したがって、締切当日にお尻に火がついてから取り組むというのは、実行している人も多いが(私も沢山思い当たる節があるが)中々危険な賭けである。そこでTAオフィスアワーを宿題の締切前日に設定し、「自分がどこで詰まっているかを説明すれば次の一手に関するヒントをもらえる」という形式にする事で、自然と締切2日前くらいから宿題に取り組むインセンティブを提供する事にした。もちろんインセンティブであって強制ではないので利用しなくても構わないが、ヒントをもらいつつ時間に余裕を持って宿題に取り組んだ人の方が成績が良くなる事は想像に難くない。(なお、あくまでも「自分が詰まった所から次の一手に関するヒント」なので、なるべく自力で解き進めた方がより良いヒントをもらえるという点で、真っ当に取り組むインセンティブを阻害する事もないと思う。)

もらえるヒントの量を揃えるという結果の平等を追求するのではなく、かといって「ヒントをもらえる権利は全員にある」という形で機会の平等を雑に確保して図々しい人が得をする仕組みにしてしまうのでもなく、早く宿題に取り組んだ人が到達点に応じてヒントをもらえるというインセンティブ設計が、理論的にはベストの答えであるように思う。実験結果は今期の終わりを待たねばならないが、いずれにせよこうした小さなインセンティブ設計を考える事は、学生のためになりつつ自分自身もティーチングを楽しむための一つの手段であるように思う。

大依存時代

今がどんな時代かと聞かれたら、「依存症」というのが最も的確なキーワードではないかと思う。真っ先に思い当たるのは、AI依存症である。生成AIの普及により、自分で考えたり文章を考えたりするのをやめ、AIに丸投げしてしまっている人も多いと思う。これは効率的な部分もあるが、人間の思考力や文章力を下げる一因となっている事は想像に難くない。あるいは、SNS依存症も分かり易い例だろう。かつては年賀状などを通じてごく稀にしか行われなかった近況報告が日々頻繁に行われるようになり、必要以上のコミュニケーションが我々の時間を浪費している。最後の例を挙げるなら、Netflixや Amazon Primeに代表される、ストリーミングサービス依存症も典型だろう。かつてテレビは最新話だけを追うものであったが、今では過去のあらゆる作品を自由に観れるようになった結果、無制限に時間を投じる事ができるようになった。YouTubeもまた、コンテンツの無制限な拡大という点で近しいものがある。

これら全てに共通するのは、利便性の向上が依存性も同時に高めてしまったという事である。AIに仕事をほとんど丸投げし、隙間時間にSNSを眺め、休日にはストリーミングサービスやYouTubeを観て過ごす。これが典型的な現代人の日常となってはいないだろうか。もしそうだとすれば、残念ながら我々は知らず知らず依存症まみれの日常を送っている事になる。依存症というのはもはや、アルコール依存症やギャンブル依存症といった一部の人の特殊事情ではなく、多くの人に当てはまる現象となったのである。

では我々はどうすればよいのだろうか。私が思う答えは、「少しだけ不便な日常に帰ろう」というものである。これだけ便利になった世の中を完全に捨てるのは難しいが、少しだけなら不可能ではない。例えば私は、Grammarlyという英文添削サービスを長らく愛用している。以前は、日常的に英文を書く多くの人に愛用されたサービスだったが、近年は生成AIに乗り換えてしまった人も多いかもしれない。Grammarlyが生成AIと異なるのは、「あまり大した事はしてくれない」という事である。文法ミスやスペルミス、不自然な単語選択の指摘といった基本的な事はしてくれるが、文章を丸ごとネイティブらしく書き換えてくれる等といった大掛かりな事はしてくれない。だが、丸投げができず基本は自分で書かなければならないという特性ゆえに、Grammarlyは自分のライティング力を高めてくれる。これは、下書きを適当にやって後はAIに丸投げというスタイルでは絶対に得られないものである。(私はGrammarlyの回し者ではないので、紹介リンクを貼ったりはしない。)他の例で言えば、テレビを観るならストリーミングサービスよりもTVerである。最新話しか見られないという不便さのお陰で、過剰な視聴に歯止めがかかる。このように、一見下位互換とも思えるサービスが、依存性の低さゆえにかえって素晴らしいサービスであるという事は、これらの例に限らず珍しくないと思う。便利過ぎるサービスを手放し、少しだけ不便なサービスに乗り換える事が、利便性を享受しつつも依存症に陥る事無く現代を生き抜くためのヒントなのかもしれない。

Columbia-Bocconi Political Economy Conference

ロチェスター大学開催の学会以外では今回初めて、テーマ別の小規模な学会に参加した。Political Economy Conferenceという事で理論家大集合!かと思いきや、報告の15/18が実証研究というまさかの展開だった。これは流石に理論家の先生にとっても予想外だったようで、「APSA数理政治学セクションのメーリングリストで宣伝されてたのにこんな事ある!?」と嘆き節をこぼしていた。だがマイノリティ同士の仲間意識が芽生えた事で、かえってネットワーキングがしやすい環境ではあった。お陰でディナーでも若手の先生方2人と理論家卓を形成し、危惧していたボッチ飯を回避する事ができた。こうした大人数でのソーシャルイベントがお化けよりも怖い自分にとって、これは本当に幸運な事だった。

ディナーをご一緒したお二人は本当に神対応だったので、お二人の知らない所で勝手にお二人の好感度を上げておきたいと思う。1人目はシカゴ大学で授業を受けたZhaotian Luo先生だったのだが、6年も前にしかもZoomで受講していた一学生の事を覚えていてくださり、1日目のランチで向こうから食事に誘ってくださった。もう一人のJessica Sun先生は、Zhaotian先生がスライド準備で早めにディナーから帰った後、私の事など放っておいて他の先生方とお話になればよいところ、私が一人にならないよう気遣って下さった。Jessica先生にネットワーキングのコツについて伺ったところ、「人に心を開いてもらうには時間がかかるので、同じ人と5回は話す必要がある」との事だったが、「いや先生は1回目からこんなに良くしてくださっているじゃありませんか」と思わずツッコんでしまった。これは先生の指導教官から受け継いだpay it forwardの精神だそうで、自分も将来同じ事をせねばなるまいと思った。そういうわけで、ネットワーキングについてはお二人のお陰で大成功だったと思う。なお、ロチェスター大学の大先輩であるAlastair Smith先生がディナーの横のテーブルに座っておられ、少しだけお話する事ができたのも幸運だった。

今回はstudent sessionでのわずか5分程度の報告だったが、報告後多くの先生方から「プレゼン良かったよ」と話しかけて頂く事ができ、就活に向けたアピールとしては成功だったと思う。とりわけ、主催者(恐らく私の報告を採択してくださった?)であり非常に研究関心も近いCarlo Prato先生から褒めて頂いたのは今後に向けて非常に大きかった。ロチェスターの先生もお二人参加されていたので、ロチェスターを代表して下手なプレゼンをしていたらお二人から抹殺されていたと思うが、なんとかロチェスターの看板に泥を塗らずに済んだようである。APSAやMPSAは学会自体の規模は大きいものの各セクションにいるオーディエンスはせいぜい十数人くらいだが、こうした小規模学会は数十人の参加者全員の前でプレゼンができるので、より大きなやりがいがあった。普通小規模学会では学生のプレゼンは無いか、あったとしてもポスターセッションが一般的なので、中々得られない貴重な機会を頂いたと思う。加えて、学生がネットワーキングしやすいようにするための自己紹介代わりという趣旨だったので、時間帯も1日目の序盤(しかし参加者が遅れて少しずつ増えてくる午前中ではなく、参加者がほぼ出揃ったお昼頃という理想のタイミング)に設定してくださった。おまけにたった5分の報告しかしていない学生の渡航費とホテル代まで支給して下さるという、何から何まで学生に優しすぎる学会だった。自分も将来学生に優しい教員になりたいと思いつつ、それよりもまず学生に優しさを発揮する機会を持てるよう、こうした学会にコンスタントに出られる教員になりたいと思った。

スライドが見やすい最前列とトイレに行きやすい最後列が定位置だった

人懐っこい揚豆腐

もうすぐ4月!ロチェスターの季節は、言うまでもなく冬である。東京では桜満開との知らせを羨ましく思いつつ、ダウンコートをまとって出かける日々がもうしばらく続く。だが今日は、時折ランダムに出現する温暖日の一日である。こんな日は、冬眠中の私も流石に外に出て散策せざるを得ない。散策と言っても公園はまだ殺風景なので、歩き回ってもあまり楽しいものではない。仕方がないので、音だけはビーチ気分を味わえる貯水池脇のベンチに腰掛ける。そんな局所的レジャースポットでバカンスをしていると、ロチェスターには珍しい柴犬が前を横切った。思わず「柴!?」と声をあげると、びっくりして振り返ったのは犬ではなく飼い主だった。飼い主は日本人で、驚いたのは私の声にではなく日本人の存在にである。飼い主曰く猫のようなツンとした性格をしている柴犬に何故か懐かれ、ふわふわの豆腐(注: 柴犬の名前。毛は白主体だがやや茶がかっているため揚豆腐の方が適切という話もある。)をひとしきり撫でて名残惜しくもお別れした後、こんな所で日本人に会う事もあるのかと思っていたのも束の間、今度はアメリカ人のおばあさんに話しかけられた。聞いてみると、息子さんは日本人と結婚して長年日本に住んでいるそうで、これまた日本にゆかりある方であった。会話中に娘さんから電話がかかってきたので娘さんともお話する事になったが、開口一番出てきたのは「お母さんはシャイでしょ」という台詞だった。そんなわけがないのはその場の全員の周知の事実だったので、多分冗談である。真顔だったので自信は無いが。そうこうしている内に温暖ボーナスタイムが終わりを迎えたので、尻尾を巻いて寝ぐらに帰る事にした。
あのベンチはレジャースポットだとばかり思っていたが、どうやら社交場のようである。そこでの小一時間は思いのほか慌ただしかったが、バカンスの主目的である日光の摂取という目的は達せられたので上々だろう。(冬のロチェスターにおける日光はダイヤモンドくらい貴重である。)私にとってこうした突発的な会話イベントは年に1回あるか無いかというレアイベントだが、それが1時間に2回も発生したのだから、あの柴犬とおばあさんは何かの組織からの刺客だったのではないかと疑いもしたくなるほどである。今日は自分にとって特別な日でも何でもないが、これ以上珍しい事が起きる日もこの先の人生そうそう無いだろう。こういう「どうでもいいが忘れてしまうのは勿体無いような日」をきちんと記録する事こそ、ブログの醍醐味というものだろう。

研究生活の3箇条

博士後期課程に入ってもうすぐ2年が経つ。と言っても3年生であった昨年度はTAを遅らせてまだ少し授業を取っていたので、研究とTAという博士後期課程らしい生活になったのは今年度からである*1。博士課程の全員が通る道だと思うが、「授業と課題中心の学生生活」から「研究と教育中心の研究生活」への移行はスムーズなものではなく、自分なりの研究生活サイクルを生み出すのに今も悪戦苦闘している。しかしここ1~2年の経験を通じて、「研究生活を上手く過ごすためのアドバイスを3つ答えよ」と言われたら恐らくこれらではないかという考えがまとまったので、記録したいと思う。自分が上手くいった事をシェアするというより、上手くいく事も上手くいかない事もあるが、成功時も失敗時もその重要性を実感する事が多いという性格のものである。

 

①短期的目標にコミットする

まず、締切が無いと延々と先延ばししてしまうので、締切を用意する必要がある。だが締切があまりに遠いと中々お尻に火が付かないので、遠くても1か月後くらいの短期的目標がベストだと思う。分かりやすい例で言えば、中間試験や期末試験は早くても1か月前くらいから対策する人が多く、それ以上前からコツコツ準備するのは大変だろう。自分の中での目標だと守れなかった時に制裁がなく実効性に乏しいので、学会やワークショップでの報告といったコミットメントデバイスが望ましい。とはいえ毎月報告機会を作るのはあまり現実的でないので、なるべく2か月に1回程度は報告機会を設けるようにしたい。他にも学会への申し込みやビジターとのミーティングも締切として有効だし、締切として使えるものは何でも使うべきである。

この点に関連して思う事は、月1で必ずミーティングをしてくださっていた京大の指導教員の指導スタイルが有難かったという事である。現在指導してくださっている先生方はこちらが必要な時にアポをとってミーティングしてくださるという指導スタイルなので、「頑張って成果を出す→ミーティングに申し込む」という順序になっているが、「定期ミーティングまでに何としても成果を出さなければならない→ミーティング」という順序の方が学生にとっては有難い。かといって毎週ミーティングというのも、短期的には成果が出やすいかもしれないが、指導教員による管理に依存すると主体的に研究を進められるようになるという研究者としての成長を阻害してしまう気がするので、長期的に見ると望ましくない面もあると思う。そう考えると、月1のミーティングという短期的目標を指導教員が提供するのは、生産性向上と主体性尊重という2つのバランスをとった素晴らしい指導スタイルだったと今になって実感している次第である。自分も将来このスタイルを実践したい。ただ残念ながら今はその恩恵に与る事はできない以上、他のコミットメントデバイスを可能な限り沢山用意しなければならない。

 

②自分が生産的に過ごしやすいスケジュールを設計する

①は月単位の話だったが、今度は週単位、日単位の短期的な話である。自分は自宅よりも研究室の方が生産的に過ごしやすいが、何も用事が無いと大学に行くのが億劫になってしまうので、TAをしている授業やワークショップといった、曜日がコントロールできない用事が無い日にTAセッションやオフィスアワーを入れる事で、平日は毎日大学に行く予定があるようにしている。時間帯も選べる場合は自分にとって都合の良い時間帯を見つけ出すべきだろう。自分の場合は夜7~8時くらいが終業時刻で、午後のど真ん中に用事が入るのは嫌なので、なるべく午後3~5時には用事を入れず午前や午後一番に用事を入れるようにしている。また、宿題の解答作成や採点等の教育タスクをこなす時間も決めている。

一方で、デフォルトのスケジュールは設定しつつ、必要に応じて変更する事も重要である。例えば、私の可処分時間の優先順位は①研究②教育③勉強なのだが、研究のモチベーションが低い時は教育タスクをデフォルトのスケジュールより前倒しで片づけてしまう。これにより、後で研究へのモチベーションが高い時に研究に使える時間が長くなる。前倒しで取り組める教育タスクが無い時は、教科書やレビュー論文などを読む勉強時間に充てる事で、時間を有効活用するようにしている。

 

③メリハリある生活により心身の健康を保つ

これは京大でお世話になった、指導教員とは別の先生から留学前に頂いた助言である。以来このことは常に意識してきた事なので、少なくとも学期中については上手くいってきたように思う。週単位の休みという点では、以前の投稿で紹介した「日曜を固定休、土曜をインセンティブ休とする」というシステムが自分に合っている。日単位の休みについては、夕食後は眠くなるし、かといって昼食後と違って昼寝やカフェインで眠気を覚ますと夜の睡眠を阻害してしまう。したがって、「夕食後は研究しない」事にしている。

 

①については恐らくほとんどの人に当てはまるものだと思う一方、②③についてはこれまた別の投稿で論じたように、むしろこういう規則性を意識せずに気の赴くままに生活する方が生産性が上がりやすいタイプの人もいると思うので、万人に当てはまるアドバイスではないが、それでもそれなりに多くの人に当てはまるものではないかと思う。

最後に番外編だが、報告機会に乏しく、授業やワークショップが無い事でメリハリあるスケジュールを制度化しづらい長期休みは、以上全ての点において問題が生じやすい。これについては、学生のうちは定期ミーティングのあるRAをして少しでも生活にサイクルを作り出したり、教員になったら長期休みは共著に力を入れて共著者とのミーティングを頻繁に設定したり、もしくは学内・学外でティーチングの機会を見つけ長期休みを短縮するといった手段がベストだろうという結論に至った。

これらはいずれも博士課程だけでなく、研究者を続けている限り永遠に重要な事だと思うので、今後の人生を通じて理想の研究生活へと漸近していきたい。

*1:ただし、3年生に取りたい授業を残したぶん2年生後期には取りたい授業があまりなく少し早く研究をスタートさせたので、研究はスタートしているがTAはまだしていないという、いわば「博士中期課程」のような状態が2年生後期~3年生にかけて1年半続いた。なので、現在に近い生活サイクルが始まったのはやはり2年前である気がする。

2025年秋学期振り返り

今期は人生初のTAをやっていた。担当したのは大学院の数理政治学コアの前半であるMathematical Modelingで、内容は個人の意思決定 (Individual Choice) と集団の意思決定 (Social Choice) 、そしてReal Analysisを中心とする数学である。多くの大学ではpure theory(手法的な内容)については1科目しかなくゲーム理論のみをカバーするのが普通なので、ゲーム理論以外で重要なpure theoryを1科目かけてカバーするというカリキュラムは中々稀有だと思う。(私が知っている範囲では、UCSDでもロチェスター出身の先生が同様のカリキュラムを導入したらしいが、それ以外では見た事が無い。)その意味でこの科目は最もロチェスターらしい科目であり、TAを通じて、数理政治学のカリキュラムで何を教えるべきかについて考えを深める事ができた。

具体的には、とりわけSocial Choiceの基礎を教える事の重要性を感じた。というのも、Social Choiceは政治の最も基本的なモデルだと思うからである。「政治とは何か」という問いについては、学部の授業でイーストンの「価値の権威的配分」やシュミットの「友敵関係」など有名な政治学者による様々な定義を習ったが、私が考える定義は「集団的意思決定とその実行」である。最も小さな単位では自治体、次に国、そして国際連合といった、大小さまざまな単位の人間の集団が集団としての意思決定を行い、そしてそれを実行するというのが、政治の本質ではないかと思う。そう考えた時、集団的意思決定の最も基本的なモデルであるSocial Choiceは、政治の最も基本的なモデルだと言う事ができる。

歴史的には、Social Choiceにおけるアローの不可能性定理(民主主義に対していくつかの望ましい性質を要求すると独裁主義になってしまう)やMcKelvey-Schofieldのカオス定理(多次元空間上の選択肢にコンドルセ勝者(他全ての選択肢との1対1の多数決で勝つ選択肢)は基本的にない)といったネガティブな結果をうけて、それでも民主主義は一応機能しているように見えるし、法則性もあるはずだという事でゲーム理論による分析が進んできたわけだが、かといって出発点となったSocial Choiceを丸々スキップしてゲーム理論ばかり教えるのは、政治を理論的に理解する上で最も基本的な部分が欠落していると言わざるを得ない。

この時思い出されるのは、日本のミクロ経済学において最も有名な教科書の1つである『ミクロ経済学の力』の序文の一節である。著者は、経済学の基本である価格理論をスキップしてゲーム理論ばかり教えるのは、物理学においてニュートン力学をスキップして素粒子理論ばかり教えるようなものと批判しているが、全く同様の事が政治学におけるSocial Choiceにも当てはまると思う。価格理論は既に完成された理論であり今さら価格理論を研究している経済理論家は少ないが、しかし重要な基礎としてコア科目で教え続けられている。同様に、Social Choiceは(少なくとも政治学者の目から見れば)既に完成された理論であり、政治学者でSocial Choiceを研究している人は少ないが、やはり重要な基礎としてコア科目で教えられるべきなのではないかと思う。

Social Choiceが具体的にどう重要かと言うと、例えばSocial Choiceを勉強していない政治学者にとっての中位投票者定理は、中位投票者の望む政策が均衡であるというゲーム理論的な理解かもしれないが、中位投票者定理は元々Social Choiceの定理で、中位投票者の望む政策がコンドルセ勝者であるという事実がその背後にある。あるいはSocial Choiceを勉強していないと、民主主義と独裁主義の違いは選挙の競争性や報道の自由といった様々な要因で決まるもので、理論的に明確な違いを述べる事は難しく、民主主義”度”と言っても本質的に何を測定しているのか曖昧だが、Social Choiceにおいては、民主主義は全ての人の選好が意思決定において考慮されている状態、逆に独裁主義は1人の選好だけで結果が決まる状態、そして一部の人の選好だけで結果が決まる中間的状態としての寡頭制といったように、明確な基準が存在する。またVeto playerという「民主主義度」とは一見無関係な制度も、民主主義が全員を平等に扱うと発生しがちな多数決のサイクル(過半数がAよりBを好み、過半数(同じ人たちとは限らない)がBよりCを好み、過半数がCよりAを好む)を回避し民主主義が無事に意思決定を行うための、「独裁主義ほど極端ではない部分的な権力の集中」という妥協だと理解できる。

とはいえ、Social Choiceのあまり詳しい内容まで教える必要はないと思う。具体的に教えるべきだと思うのは、「アローの不可能性定理」から出発して、「この定理で仮定されている公理を緩めたところで似たような結果が得られるため、民主主義の抱えているジレンマは本質的なものであるという事」、したがって「民主主義においてポジティブな結果を得るためには集団的意思決定のアウトプットかインプットのいずれかに制約をかける必要があるという事」、「アウトプットに制約をかけた代表例として、選択肢を2つに絞った下で多数決の望ましさを示すMayの定理」、「インプットに制約をかけた代表例として、選好をsingle-peaked preferenceに限定した下での中位投票者定理」、しかし「多次元空間においては多数決はほぼ不可能である事を示すMcKelvey-Schofieldのカオス定理」、そして「ポジティブな結果が得られるかの鍵になっているのは選択肢や次元の数を規定している中村ナンバーという数であるという事」、といった一連の全体像である。これらは1単位もあれば詳しく教える事が可能だと思うし、概要だけをその半分の時間で教える事も十分可能だと思う。このたった数回分のSocial Choiceを教えるかスキップするかで政治の理論的理解に大きな違いが出るのであれば、教えない手はないと思う。*1

Social Choiceだけでなく、数学についても考える事があった。数学は授業の最初に集合論・論理学・証明の基礎をやり、授業の後半でReal Analysisを教える構成だった。まずReal Analysisについては、「最適化を厳密に行うのに必要なツール」というモチベーションがしっかりと与えられたのは素晴らしいと思ったが、ロチェスターでは最適化理論を後期のゲーム理論の授業でカバーするので、今回の授業では最適化理論自体は詳しくやらなかった。だがReal Analysis単体だとイマイチ何のためにやっているかが分かりにくいので、理想的には、Real Analysisとその応用としての最適化理論をセットで教える方が望ましいと思う。

集合論・論理学・証明の基礎は、確かに重要な内容であるものの、政治学でカバーするレベルの内容は後に続くIndividual Choiceの二項関係等の内容に比べて簡単なので(実際宿題も最初数回の数学は全員満点近くとれており、Individual Choiceに入ってから一気に点が落ちた)、簡単な授業だと勘違いされてしまい履修ミスを誘発する危険があると感じた。実際、レベルに合っていない授業を誤って履修してしまったのか、内容を理解せずに優秀な人の答案を写していると思われる学部生の答案が散見された。(答案の細かい部分に違いがあり、理解していれば絶対に犯さないようなミスが見られたので、どれがオリジナルでどれがコピーか分かった。これは、ささいな違いでもネイティブスピーカーなら絶対に犯さないような文法ミスをするとネイティブでないと分かってしまうのと似ている。)履修するかを決める最初数回の授業は後の内容と同レベルの内容を教えるべきだと考えると、集合論・論理学・証明の基礎といった内容は、学期中の授業ではなくMath Campでやるのが適当ではないかと思う。そうすれば数週分余裕が生まれるので、ロチェスターでは後期に押し出されてしまっている最適化理論を前期にまとめる事ができると思う。*2このように、授業の構成を参考にしつつも、自分なりに理想的な数理政治学コアの内容を考える事ができた。

また授業内容だけでなく、授業形式についてもどのように設計するべきかについて考えを深めた。そもそも宿題や試験は何を目的としているかを考える所から始め、したがって宿題はどのような内容をどれくらいの量・頻度で出すべきか、宿題の解答は配布した方がいいのか(一見些細な事かもしれないが、思いの外多くの考慮要因がある)、前回の投稿にも書いたように試験はどのような形式で行うべきか、以前の投稿で書いたように理想的なTAセッションとはどのようなものか、といった点について自分なりの考えを持つことができた。

2年前の投稿で宣言したように、証明の添削にも力を入れた。証明の練習は、数学においてだけでなく論理的に文章を書けるようになるために重要なトレーニングだと思う。だが証明の書き方は意外と高校でも大学でも教えてくれないので、丁寧に添削してもらえる機会がない限り中々上達しないし、まともに書けていない事を自覚する事すら難しいと思う。自分の場合は、2年前に受けた経済数学の授業のTAが丁寧に添削してくださったお陰で記述力が向上したので、自分も似たような貢献をしたいと考えていた。こうした添削指導の意義を全員に気が付いてもらうのは難しいかもしれないが、そのTAの方に感謝している自分のように、毎年一人でも気が付いてくれる人がいればいいなと思う。実際、何人かの学生はアドバイスを真摯に受け止めてくれたようで、記述に明らかな改善が見られた。学生が証明を書く時にどのような点でミスしやすいか一学期間を通じて自分自身も学ぶ事ができ、それを基に初回の授業でどのようなアドバイスをするべきかも考える事ができた。

たった一回のTAではあったが、自分なりのTeaching Policyを確立する上で非常に有意義なTAだった。TA評価のアンケートでも学生から満点近い評価をもらう事ができたので、真摯に取り組んでよかったなと思う。後期も大学院の数理政治学コアのTAを任せてもらえる事になったので、数理政治学カリキュラムの構想を引き続き練っていきたい。

反省点としては、人生初のTAという事で諸々非効率な点も多かったため過剰に時間を割いてしまい、研究の進捗が遅れてしまった事である。現在取り組んでいる論文についてしっかり冬休みの間にキャッチアップした上で、春学期を通じて推敲を重ね、学期末にはジャーナル投稿を始められる段階まで持っていきたい。

*1:この構成の着想は授業よりもAusten-Smith&BanksのPositive Political Theory Iから得ている。ゲーム理論を使った数理政治学の体系を示しているPositive Political Theory II 同様、Social Choiceの体系を示しているこの本も美しい本だが、技術的に細かい話も多い。したがってこの本のクリアな構成を基に、今回の授業と同じくらいのレベルで教えるのが理想的だと感じる。

*2:ゲーム理論だけで4単位では教える内容が足りないので最適化理論をあえて後期に回しているという説はあるが、ロチェスターではゲーム理論を1年後期と2年前期の8単位かけて勉強するカリキュラムになっており、重複があるように感じるので、いっそ1科目にまとめてしまえるのではないかと思う。2年前期の授業ではReal Analysisを使った均衡存在の証明など上級レベルの内容をやるのであえてコアから外しているという意図も分かるのだが、それを言うなら1年前期のIndividual ChoiceとSocial Choiceも上級レベルの抽象的な証明が多いので、前期と後期でコアのレベルが噛み合っていないように感じる。ロチェスターのように数理に力を入れている大学なら、コア科目を1年通じて上級レベルの内容に統一する事も考えていいのではないだろうか。

AI時代の中間・期末試験

アメリカの大学は中間試験シーズンである。この1年でAIの性能が大幅に向上した事で、今年から試験方式を変更した授業も見かける。典型的なのは自宅試験(レポート試験)から教室試験(筆記試験)への変更だが、全てのレベル・科目において教室試験が優勢になっていくべきかというと、そうではないと思う。そこで、学部・大学院、メソッド・サブスタンスという2×2の区分ごとに、これからの試験がどうあるべきかを考えておきたい。

各区分に入る前に、教室試験と自宅試験の長所を確認しておきたい。まず教室試験の長所は何と言っても、「不正が難しいこと」に尽きる。逆に自宅試験では、いくら「AI使用禁止」「他人との相談禁止」等と脅し文句を書いた所で、それらを完全になくす事は不可能である。次に自宅試験の長所としては、「時間の制約が緩いため、出題できる問題のレベルや数の制約も緩く、要求水準も高めに設定できること」が主だと思う。教室試験は長くてもせいぜい2~3時間なので、あまり難しい問題や多くの問題を出題するのは難しいし、そのような短時間で独創性に溢れた答案を期待できるはずもない。したがって教室試験と自宅試験をどう使い分けるかについては、「短時間で解けるレベルや数の内容を問えばいいor不正のインセンティブが大きい場合は教室試験、高度な内容や多くの内容を問いたいand不正のインセンティブが小さい場合は自宅試験」というのがこれまでの基準であったのではないかと思う。そこに新たに、「AIに解けるレベルの問題(必ずしも人間にとって簡単な問題とは限らない)なら教室試験」という基準が加わったわけである。

それではこれらの基準を各区分にあてはめていきたいが、まず学部メソッドと大学院サブスタンスはシンプルに、これまで通りの方式で良いのではないかと思う。学部メソッドはこれまで教室試験が優勢だったと思うが、学部メソッドの問題であれば短時間でも十分解けるはずだし、AIにも解けてしまう可能性が高い。またGPAに命を懸けている学部生は不正のインセンティブが大きい事も合わせると、今後も教室試験一択だと思う。

次に大学院サブスタンスは自宅試験が優勢だったと思うが、これも変えようがないと思う。というのも、大学院サブスタンスの試験は研究アイディアを出すのが主目的なので、高度な内容を問わざるを得ない。AIに書ける程度のレポートを提出した場合、実際にAIを使用したかにかかわらず不合格もしくは合格最低ラインという基準にすべきだろう。厳しいようにも思えるが、大学院生というのは言わば「AIと戦う事を決めた人達」であって、AIに負けないクリエイティビティを発揮できなければ評価されないのは当然の事である。また研究アイディアは相談禁止どころかむしろ相談を奨励した方が良いので、剽窃(これこそAIを使えば比較的簡単に判別できることだろう)を除けば防ぐべき不正もあまりない。したがって大学院サブスタンスについては、AIに負けない内容を書けなければ高評価を得られないという要求水準の上昇はあるものの、方式については引き続き自宅試験が優勢だろう。

ここからが悩ましいが、学部サブスタンスについては、大学院生と同様のクリエイティビティを要求するのは酷のような気がする。大半の人は研究者になるわけではないので、「AIに書けないような内容を書ける事」まで要求する必要はなく、「AIにも書ける内容を自力で書ける事」を要求すれば十分な気もする。第一、学部サブスタンスの授業はメソッドの授業を履修要件にしていない事も多いので、レポートはメソッドを用いた本格的な内容ではなく、授業内容の要約+若干の考察程度しか期待できない。これではAIに書けてしまうのも当然なので、自宅試験にするメリットが思い当たらない。したがって教室試験が優勢になっていくべきだと思うのだが、ここでかつての投稿で論じた、「教室試験では暗記を問う事になりがち」という問題が再浮上する。したがって、「暗記ではなく自ら考える事を問う問題」になるよう工夫すべきだと思う*1。まとめると、自宅試験だとAI答案のオンパレードになる事が予想される(そして実際にそうなっている授業の話も聞く)学部サブスタンスについては教室試験への移行が妥当ではあるが、教室試験の短い時間の中でも、なるべく暗記ではなく思考を問うような問題を出題すべきだと思う。

最後に大学院メソッドだが、TAとして目下これを担当している自分にとっては一番タイムリーな話であり、現場を見ていると最も悩ましいと思う区分でもある。まず前提として、「可能であれば自宅試験にしたい」というのが担当教授の意向であり、これには私も共感している。理由としては、「教室試験では短時間で問題を解けるかを問う事になってしまうが、私が問いたいのは時間に余裕がある中で問題を解けるかどうかである」との事である。私の推測で補足すると、研究者に求められるのはまさに時間に余裕がある中で難問を解く能力であり、簡単な問題を素早く解く能力ではない。研究者を養成する大学院の授業において、ストレートに研究者として重要な能力を問いたいのは自然な事だろう。では実際に問題なく自宅試験を実施できているかどうかだが、現時点では問題なく実施できていると思う。というのも、宿題を採点していると、もしかするとAIを使っている人もいるかもしれないが、それでも完璧な答案を書けている人はほとんどいないからである(宿題の平均点はおおよそ8割前後)。したがってこの科目くらい難しい内容であれば、今のAIには完璧な答案を書く事はできないようなので、今の所は無事に自宅試験が成立しているようである。だが将来的にもこの状況が変わらない保証はないし、むしろ数年後には自宅試験は不可能になっている可能性が高いと思う。そうなってしまえば教室試験に移行せざるを得ないのだが、そうなると出題にも制約がかかる。現在の科目では30分以内に解ける簡単な問題から、1~2時間かかる中間的な問題、そして半日以上はかかるような難問まで数問ずつバランスよく出題されているのだが、教室試験になると、「簡単な問題数問+中間的な問題1問」もしくは「中間的な問題2問」くらいが限度になるだろう。これでは教授が危惧している通り、ただ簡単な問題を素早く解ける人が評価される試験になってしまうし、成績を差別化する事が期待される中間的な問題は1,2問しか出せないので、出題されたわずか1,2問との相性によって成績が大きく左右されてしまう事になる。まとめると、上記3区分についてはこれからの最適な試験方式がはっきりとしたのに対し、大学院メソッドだけは「自宅試験が理想で、AIが解けないうちは自宅試験で良いが、AIが発展すれば最終的には教室試験で妥協せざるを得ない」という悲しい結論になってしまった。

AIに負けないよう難問を解ける人間を育成しなければいけない大学院メソッドで、AI対策をした結果かえって簡単な問題を素早く解ける人間が育成されてしまうというのは何とも皮肉である。しかし見方を変えれば、数学力において人間の優位性は残らないので、メソッドで難問を解ける人材を育成しようという方向性自体が間違っており、唯一自宅試験が残る大学院サブスタンスこそが、人間がAIを超えるクリエイティビティを発揮すべき唯一の場であるとも解釈できる。とはいえ、AIに勝てないからといって人間の数学力が下がっていいという事にもならないので、大学院メソッドの試験が易化し大学院生の数学力が下がっていく事への懸念は残る。なおこの議論は試験時間以内に解けるレベル・数の問題を出題するという配慮が前提となっているが、そうした配慮をせず教室試験で堂々と難問を沢山出す(そして当然のように平均点は半分を割っている)という科目も日本では見た事がある。そのようなショック療法的な試験が望ましいかはさておき、そうした極端な選択肢さえ検討に値してしまうほど、大学院メソッドにおける試験の未来は難しい問題のように思う。

*1:では具体的にどのような問題にすべきかと考えた時、言葉だけで厳密かつ独創性のある議論を行うのは限界があると考えた結果、数理ベースでサブスタンスを教える事で、試験でも数理的思考を応用して論述してもらおう、というのが上記の投稿で論じた事であり、紹介はしていないが実際に考えた作問例もある。

生産性型:R型とF型

まるで新しい血液型のような題名だが、似たような要領で人間を2つのタイプに分類してみようという試みである。これを思いついたきっかけは、同じくアメリカでPhDをやっている親友との会話である。自分は学期中は生産的に過ごしやすい一方長期休みに苦戦しやすいのに対し、親友はむしろ長期休みに生産的に過ごしやすく学期中は苦戦しがちなのだと言う。理由を考えてみた所、自分は毎日のスケジュールが規則的なほど生産性が上がりやすいのに対し、彼は毎日のスケジュールが柔軟なほど生産性が上がりやすいようである。それでR型(Regularity 規則性)とF型 (Flexibility 柔軟性)というわけである。

R型の人は、自分にとって最適な習慣を構築し実践する事で生産性が最大化されるため、規則正しい生活を好む。そのため起床時刻や就寝時刻は大体固定されていて、曜日ごとに決まったスケジュールで毎日を過ごそうとする。一方F型の人は、自分の気分に従って活動する事で生産性が最大化されるため、柔軟なスケジュールを好む。起床時刻や就寝時刻はバラバラで、自分の気分以外の要因によってスケジュールが左右されるのを嫌う。言い換えれば、R型の人は外的なペースメーカーを構築して自らをそれに合わせにいくのに対し、F型の人は自分自身が持っているペースを重視するという事である。

学期中は授業やワークショップなどの予定が多く入るため、R型の人はそれらをペースメーカーとして最適な生活サイクルを構築しやすいが、F型の人にとってむしろそうした予定は、自分自身のペースを乱す障害物とみなされる。逆に長期休みはほとんど予定が入らないため、R型の人にとってはペースメーカーがなく最適な生活サイクルを構築しづらいが、F型の人にとっては自らを邪魔する物が何もない最高の環境である。

このように自分のタイプがどちらかを自覚する事は、複数の点で重要だと思う。まず単純に、生産性を高める上で必須である。自分に合わないスケジュールで毎日を過ごしていては、生産性が上がるわけもない。次に、精神衛生上の重要性がある。R型の人が長期休みに苦戦しやすいのは当然だし、F型の人が学期中に苦戦しやすいのも当然である。これが分かっていると、「なぜ自分は今生産性が下がっているんだ」とわけも分からず自己嫌悪に陥るのを防ぐ事ができる。そして最後に、むやみに他人のワーキングルーティーンを真似したり、むやみに自分のワーキングルーティーンを他人に押し売りする事を防ぐこともできる。同じ生産性型の人のワーキングルーティーンを参考にするのは有益だが、生産性型の違いによって適切なアドバイスが真逆になりうるという事実は、一般にあまり意識されていないように思う。アドバイスの出し手・受け手の生産性型が一致している事を、まず確認しなければならない。

塾としてのTAセッション

今期は大学院の数理政治学の授業のTAをやっている。自分にとっては初めてのTAなので、どのようなTAセッションが良いTAセッションなのだろうかと考えながらやっているが、一つ思いついたのが「塾のようなTAセッションが良いTAセッションなのではないか」という事である。その心を説明する前に、そう思うに至った経緯を説明したい。

この授業は数理政治学と言っても、普通の政治学部のようにゲーム理論を教えているわけではなく(それは後期の授業)、二項関係を使って個人や集団の選好を分析するのが主な内容である。(xRyという表記を見た事がある人ならピンとくるだろうし、これを見た事がない人も、x≿yという表記ならどこかで見た事があるのではないだろうか。要は、個人あるいは集団にとってxとyという選択肢のうちどちらがより好ましいかという話を、数学的に小難しく表記しただけの事であるが、こうした簡潔な表記によって数学的な分析がしやすくなる。)そのため政治学部にしては中々抽象的で難しめの内容になっていると思うので、どちらかと言えば数学の授業に近い感覚でTAをしている。

実質的には数学の授業なので宿題は証明が盛り沢山なのだが、そこで先生から指示されたのが、「direct proof(素直にp => qを示す証明)が分かりやすいので、なるべくdirect proofで模範解答を作成しなさい」という事である。確かにdirect proofが分かりやすい場合はそれを使うに越した事はないのだが、必ずしもdirect proofが一番分かりやすい方法ではない場合もある気がする。そこでよく使われるのが背理法(帰謬法)である。背理法では「pだがqではない」と仮定して矛盾を導くが、これはつまりpとnot qという2つの条件が使えるので、pという1つの条件しか使えないdirect proofより活路を見出しやすい。ここで気が付くのが、「事後的にシンプルで分かりやすい証明と、事前の観点から思いつきやすい証明は必ずしも一致しない」という事実である。たとえシンプルで美しい証明でも、誰も思いつかないような天下り的な証明なら、学生にとって模範解答とは言えない。むしろ多少回りくどくても確実に多くの人が思いつくような証明が、学生にとって再現性のある「良い」証明である可能性が高いだろう。(これが、後者のような泥臭い証明は全員できて当たり前の数学科の授業なら話は別なのだろうが、これは文系が集まる政治学部の授業である。)

そう考えた時思い出されたのは、高校と塾の数学の授業である。高校の数学の先生は数学のエリートなので、普通の人が思いつかないような美しい模範解答を板書して、学生を置いてけぼりにしがちである。(そうして私は落ちこぼれ、数学で赤点をとった事もある。)だが塾の数学の先生は数学が苦手な学生の気持ちをよく理解しているので、学生にとって再現性のある、まさに先ほどの後者のような模範解答を提示する傾向にある。(そうして私は救出され、数理政治学を専攻する程度には数学が苦手ではなくなった。)したがって私が目指すべきTAセッションは、高校の時私を救ってくれたような、塾のようなTAセッションなのではないだろうか。数学が超得意というわけではない自分だからこそ、数学が苦手な人にも真似が可能な証明のコツを伝える事ができると思う。塾に行かずとも授業の中に塾のような存在がある、それが理想的なTAセッションの形ではないだろうか。