Rochesterで数理政治学を学ぶ

アメリカ政治学博士課程留学サンプル

2025年秋学期振り返り

今期は人生初のTAをやっていた。担当したのは大学院の数理政治学コアの前半であるMathematical Modelingで、内容は個人の意思決定 (Individual Choice) と集団の意思決定 (Social Choice) 、そしてReal Analysisを中心とする数学である。多くの大学ではpure theory(手法的な内容)については1科目しかなくゲーム理論のみをカバーするのが普通なので、ゲーム理論以外で重要なpure theoryを1科目かけてカバーするというカリキュラムは中々稀有だと思う。(私が知っている範囲では、UCSDでもロチェスター出身の先生が同様のカリキュラムを導入したらしいが、それ以外では見た事が無い。)その意味でこの科目は最もロチェスターらしい科目であり、TAを通じて、数理政治学のカリキュラムで何を教えるべきかについて考えを深める事ができた。

具体的には、とりわけSocial Choiceの基礎を教える事の重要性を感じた。というのも、Social Choiceは政治の最も基本的なモデルだと思うからである。「政治とは何か」という問いについては、学部の授業でイーストンの「価値の権威的配分」やシュミットの「友敵関係」など有名な政治学者による様々な定義を習ったが、私が考える定義は「集団的意思決定とその実行」である。最も小さな単位では自治体、次に国、そして国際連合といった、大小さまざまな単位の人間の集団が集団としての意思決定を行い、そしてそれを実行するというのが、政治の本質ではないかと思う。そう考えた時、集団的意思決定の最も基本的なモデルであるSocial Choiceは、政治の最も基本的なモデルだと言う事ができる。

歴史的には、Social Choiceにおけるアローの不可能性定理(民主主義に対していくつかの望ましい性質を要求すると独裁主義になってしまう)やMcKelvey-Schofieldのカオス定理(多次元空間上の選択肢にコンドルセ勝者(他全ての選択肢との1対1の多数決で勝つ選択肢)は基本的にない)といったネガティブな結果をうけて、それでも民主主義は一応機能しているように見えるし、法則性もあるはずだという事でゲーム理論による分析が進んできたわけだが、かといって出発点となったSocial Choiceを丸々スキップしてゲーム理論ばかり教えるのは、政治を理論的に理解する上で最も基本的な部分が欠落していると言わざるを得ない。

この時思い出されるのは、日本のミクロ経済学において最も有名な教科書の1つである『ミクロ経済学の力』の序文の一節である。著者は、経済学の基本である価格理論をスキップしてゲーム理論ばかり教えるのは、物理学においてニュートン力学をスキップして素粒子理論ばかり教えるようなものと批判しているが、全く同様の事が政治学におけるSocial Choiceにも当てはまると思う。価格理論は既に完成された理論であり今さら価格理論を研究している経済理論家は少ないが、しかし重要な基礎としてコア科目で教え続けられている。同様に、Social Choiceは(少なくとも政治学者の目から見れば)既に完成された理論であり、政治学者でSocial Choiceを研究している人は少ないが、やはり重要な基礎としてコア科目で教えられるべきなのではないかと思う。

Social Choiceが具体的にどう重要かと言うと、例えばSocial Choiceを勉強していない政治学者にとっての中位投票者定理は、中位投票者の望む政策が均衡であるというゲーム理論的な理解かもしれないが、中位投票者定理は元々Social Choiceの定理で、中位投票者の望む政策がコンドルセ勝者であるという事実がその背後にある。あるいはSocial Choiceを勉強していないと、民主主義と独裁主義の違いは選挙の競争性や報道の自由といった様々な要因で決まるもので、理論的に明確な違いを述べる事は難しく、民主主義”度”と言っても本質的に何を測定しているのか曖昧だが、Social Choiceにおいては、民主主義は全ての人の選好が意思決定において考慮されている状態、逆に独裁主義は1人の選好だけで結果が決まる状態、そして一部の人の選好だけで結果が決まる中間的状態としての寡頭制といったように、明確な基準が存在する。またVeto playerという「民主主義度」とは一見無関係な制度も、民主主義が全員を平等に扱うと発生しがちな多数決のサイクル(過半数がAよりBを好み、過半数(同じ人たちとは限らない)がBよりCを好み、過半数がCよりAを好む)を回避し民主主義が無事に意思決定を行うための、「独裁主義ほど極端ではない部分的な権力の集中」という妥協だと理解できる。

とはいえ、Social Choiceのあまり詳しい内容まで教える必要はないと思う。具体的に教えるべきだと思うのは、「アローの不可能性定理」から出発して、「この定理で仮定されている公理を緩めたところで似たような結果が得られるため、民主主義の抱えているジレンマは本質的なものであるという事」、したがって「民主主義においてポジティブな結果を得るためには集団的意思決定のアウトプットかインプットのいずれかに制約をかける必要があるという事」、「アウトプットに制約をかけた代表例として、選択肢を2つに絞った下で多数決の望ましさを示すMayの定理」、「インプットに制約をかけた代表例として、選好をsingle-peaked preferenceに限定した下での中位投票者定理」、しかし「多次元空間においては多数決はほぼ不可能である事を示すMcKelvey-Schofieldのカオス定理」、そして「ポジティブな結果が得られるかの鍵になっているのは選択肢や次元の数を規定している中村ナンバーという数であるという事」、といった一連の全体像である。これらは1単位もあれば詳しく教える事が可能だと思うし、概要だけをその半分の時間で教える事も十分可能だと思う。このたった数回分のSocial Choiceを教えるかスキップするかで政治の理論的理解に大きな違いが出るのであれば、教えない手はないと思う。*1

Social Choiceだけでなく、数学についても考える事があった。数学は授業の最初に集合論・論理学・証明の基礎をやり、授業の後半でReal Analysisを教える構成だった。まずReal Analysisについては、「最適化を厳密に行うのに必要なツール」というモチベーションがしっかりと与えられたのは素晴らしいと思ったが、ロチェスターでは最適化理論を後期のゲーム理論の授業でカバーするので、今回の授業では最適化理論自体は詳しくやらなかった。だがReal Analysis単体だとイマイチ何のためにやっているかが分かりにくいので、理想的には、Real Analysisとその応用としての最適化理論をセットで教える方が望ましいと思う。

集合論・論理学・証明の基礎は、確かに重要な内容であるものの、政治学でカバーするレベルの内容は後に続くIndividual Choiceの二項関係等の内容に比べて簡単なので(実際宿題も最初数回の数学は全員満点近くとれており、Individual Choiceに入ってから一気に点が落ちた)、簡単な授業だと勘違いされてしまい履修ミスを誘発する危険があると感じた。実際、レベルに合っていない授業を誤って履修してしまったのか、内容を理解せずに優秀な人の答案を写していると思われる学部生の答案が散見された。(答案の細かい部分に違いがあり、理解していれば絶対に犯さないようなミスが見られたので、どれがオリジナルでどれがコピーか分かった。これは、ささいな違いでもネイティブスピーカーなら絶対に犯さないような文法ミスをするとネイティブでないと分かってしまうのと似ている。)履修するかを決める最初数回の授業は後の内容と同レベルの内容を教えるべきだと考えると、集合論・論理学・証明の基礎といった内容は、学期中の授業ではなくMath Campでやるのが適当ではないかと思う。そうすれば数週分余裕が生まれるので、ロチェスターでは後期に押し出されてしまっている最適化理論を前期にまとめる事ができると思う。*2このように、授業の構成を参考にしつつも、自分なりに理想的な数理政治学コアの内容を考える事ができた。

また授業内容だけでなく、授業形式についてもどのように設計するべきかについて考えを深めた。そもそも宿題や試験は何を目的としているかを考える所から始め、したがって宿題はどのような内容をどれくらいの量・頻度で出すべきか、宿題の解答は配布した方がいいのか(一見些細な事かもしれないが、思いの外多くの考慮要因がある)、前回の投稿にも書いたように試験はどのような形式で行うべきか、以前の投稿で書いたように理想的なTAセッションとはどのようなものか、といった点について自分なりの考えを持つことができた。

2年前の投稿で宣言したように、証明の添削にも力を入れた。証明の練習は、数学においてだけでなく論理的に文章を書けるようになるために重要なトレーニングだと思う。だが証明の書き方は意外と高校でも大学でも教えてくれないので、丁寧に添削してもらえる機会がない限り中々上達しないし、まともに書けていない事を自覚する事すら難しいと思う。自分の場合は、2年前に受けた経済数学の授業のTAが丁寧に添削してくださったお陰で記述力が向上したので、自分も似たような貢献をしたいと考えていた。こうした添削指導の意義を全員に気が付いてもらうのは難しいかもしれないが、そのTAの方に感謝している自分のように、毎年一人でも気が付いてくれる人がいればいいなと思う。実際、何人かの学生はアドバイスを真摯に受け止めてくれたようで、記述に明らかな改善が見られた。学生が証明を書く時にどのような点でミスしやすいか一学期間を通じて自分自身も学ぶ事ができ、それを基に初回の授業でどのようなアドバイスをするべきかも考える事ができた。

たった一回のTAではあったが、自分なりのTeaching Policyを確立する上で非常に有意義なTAだった。TA評価のアンケートでも学生から満点近い評価をもらう事ができたので、真摯に取り組んでよかったなと思う。後期も大学院の数理政治学コアのTAを任せてもらえる事になったので、数理政治学カリキュラムの構想を引き続き練っていきたい。

反省点としては、人生初のTAという事で諸々非効率な点も多かったため過剰に時間を割いてしまい、研究の進捗が遅れてしまった事である。現在取り組んでいる論文についてしっかり冬休みの間にキャッチアップした上で、春学期を通じて推敲を重ね、学期末にはジャーナル投稿を始められる段階まで持っていきたい。

*1:この構成の着想は授業よりもAusten-Smith&BanksのPositive Political Theory Iから得ている。ゲーム理論を使った数理政治学の体系を示しているPositive Political Theory II 同様、Social Choiceの体系を示しているこの本も美しい本だが、技術的に細かい話も多い。したがってこの本のクリアな構成を基に、今回の授業と同じくらいのレベルで教えるのが理想的だと感じる。

*2:ゲーム理論だけで4単位では教える内容が足りないので最適化理論をあえて後期に回しているという説はあるが、ロチェスターではゲーム理論を1年後期と2年前期の8単位かけて勉強するカリキュラムになっており、重複があるように感じるので、いっそ1科目にまとめてしまえるのではないかと思う。2年前期の授業ではReal Analysisを使った均衡存在の証明など上級レベルの内容をやるのであえてコアから外しているという意図も分かるのだが、それを言うなら1年前期のIndividual ChoiceとSocial Choiceも上級レベルの抽象的な証明が多いので、前期と後期でコアのレベルが噛み合っていないように感じる。ロチェスターのように数理に力を入れている大学なら、コア科目を1年通じて上級レベルの内容に統一する事も考えていいのではないだろうか。

AI時代の中間・期末試験

アメリカの大学は中間試験シーズンである。この1年でAIの性能が大幅に向上した事で、今年から試験方式を変更した授業も見かける。典型的なのは自宅試験(レポート試験)から教室試験(筆記試験)への変更だが、全てのレベル・科目において教室試験が優勢になっていくべきかというと、そうではないと思う。そこで、学部・大学院、メソッド・サブスタンスという2×2の区分ごとに、これからの試験がどうあるべきかを考えておきたい。

各区分に入る前に、教室試験と自宅試験の長所を確認しておきたい。まず教室試験の長所は何と言っても、「不正が難しいこと」に尽きる。逆に自宅試験では、いくら「AI使用禁止」「他人との相談禁止」等と脅し文句を書いた所で、それらを完全になくす事は不可能である。次に自宅試験の長所としては、「時間の制約が緩いため、出題できる問題のレベルや数の制約も緩く、要求水準も高めに設定できること」が主だと思う。教室試験は長くてもせいぜい2~3時間なので、あまり難しい問題や多くの問題を出題するのは難しいし、そのような短時間で独創性に溢れた答案を期待できるはずもない。したがって教室試験と自宅試験をどう使い分けるかについては、「短時間で解けるレベルや数の内容を問えばいいor不正のインセンティブが大きい場合は教室試験、高度な内容や多くの内容を問いたいand不正のインセンティブが小さい場合は自宅試験」というのがこれまでの基準であったのではないかと思う。そこに新たに、「AIに解けるレベルの問題(必ずしも人間にとって簡単な問題とは限らない)なら教室試験」という基準が加わったわけである。

それではこれらの基準を各区分にあてはめていきたいが、まず学部メソッドと大学院サブスタンスはシンプルに、これまで通りの方式で良いのではないかと思う。学部メソッドはこれまで教室試験が優勢だったと思うが、学部メソッドの問題であれば短時間でも十分解けるはずだし、AIにも解けてしまう可能性が高い。またGPAに命を懸けている学部生は不正のインセンティブが大きい事も合わせると、今後も教室試験一択だと思う。

次に大学院サブスタンスは自宅試験が優勢だったと思うが、これも変えようがないと思う。というのも、大学院サブスタンスの試験は研究アイディアを出すのが主目的なので、高度な内容を問わざるを得ない。AIに書ける程度のレポートを提出した場合、実際にAIを使用したかにかかわらず不合格もしくは合格最低ラインという基準にすべきだろう。厳しいようにも思えるが、大学院生というのは言わば「AIと戦う事を決めた人達」であって、AIに負けないクリエイティビティを発揮できなければ評価されないのは当然の事である。また研究アイディアは相談禁止どころかむしろ相談を奨励した方が良いので、剽窃(これこそAIを使えば比較的簡単に判別できることだろう)を除けば防ぐべき不正もあまりない。したがって大学院サブスタンスについては、AIに負けない内容を書けなければ高評価を得られないという要求水準の上昇はあるものの、方式については引き続き自宅試験が優勢だろう。

ここからが悩ましいが、学部サブスタンスについては、大学院生と同様のクリエイティビティを要求するのは酷のような気がする。大半の人は研究者になるわけではないので、「AIに書けないような内容を書ける事」まで要求する必要はなく、「AIにも書ける内容を自力で書ける事」を要求すれば十分な気もする。第一、学部サブスタンスの授業はメソッドの授業を履修要件にしていない事も多いので、レポートはメソッドを用いた本格的な内容ではなく、授業内容の要約+若干の考察程度しか期待できない。これではAIに書けてしまうのも当然なので、自宅試験にするメリットが思い当たらない。したがって教室試験が優勢になっていくべきだと思うのだが、ここでかつての投稿で論じた、「教室試験では暗記を問う事になりがち」という問題が再浮上する。したがって、「暗記を問う内容にならないよう、解答に必要な知識は問題文でリマインドしつつ、ただそれを当てはめるのではなく、自ら考える事を問う問題」にすべきだと思う*1。まとめると、自宅試験だとAI答案のオンパレードになる事が予想される(そして実際にそうなっている授業の話も聞く)学部サブスタンスについては教室試験への移行が妥当ではあるが、教室試験の短い時間の中でも、なるべく暗記ではなく思考を問うような問題を出題すべきだと思う。

最後に大学院メソッドだが、TAとして目下これを担当している自分にとっては一番タイムリーな話であり、現場を見ていると最も悩ましいと思う区分でもある。まず前提として、「可能であれば自宅試験にしたい」というのが担当教授の意向であり、これには私も共感している。理由としては、「教室試験では短時間で問題を解けるかを問う事になってしまうが、私が問いたいのは時間に余裕がある中で問題を解けるかどうかである」との事である。私の推測で補足すると、研究者に求められるのはまさに時間に余裕がある中で難問を解く能力であり、簡単な問題を素早く解く能力ではない。研究者を養成する大学院の授業において、ストレートに研究者として重要な能力を問いたいのは自然な事だろう。では実際に問題なく自宅試験を実施できているかどうかだが、現時点では問題なく実施できていると思う。というのも、宿題を採点していると、もしかするとAIを使っている人もいるかもしれないが、それでも完璧な答案を書けている人はほとんどいないからである(宿題の平均点はおおよそ8割前後)。したがってこの科目くらい難しい内容であれば、今のAIには完璧な答案を書く事はできないようなので、今の所は無事に自宅試験が成立しているようである。だが将来的にもこの状況が変わらない保証はないし、むしろ数年後には自宅試験は不可能になっている可能性が高いと思う。そうなってしまえば教室試験に移行せざるを得ないのだが、そうなると出題にも制約がかかる。現在の科目では30分以内に解ける簡単な問題から、1~2時間かかる中間的な問題、そして半日以上はかかるような難問まで数問ずつバランスよく出題されているのだが、教室試験になると、「簡単な問題数問+中間的な問題1問」もしくは「中間的な問題2問」くらいが限度になるだろう。これでは教授が危惧している通り、ただ簡単な問題を素早く解ける人が評価される試験になってしまうし、成績を差別化する事が期待される中間的な問題は1,2問しか出せないので、出題されたわずか1,2問との相性によって成績が大きく左右されてしまう事になる。まとめると、上記3区分についてはこれからの最適な試験方式がはっきりとしたのに対し、大学院メソッドだけは「自宅試験が理想で、AIが解けないうちは自宅試験で良いが、AIが発展すれば最終的には教室試験で妥協せざるを得ない」という悲しい結論になってしまった。

AIに負けないよう難問を解ける人間を育成しなければいけない大学院メソッドで、AI対策をした結果かえって簡単な問題を素早く解ける人間が育成されてしまうというのは何とも皮肉である。しかし見方を変えれば、数学力において人間の優位性は残らないので、メソッドで難問を解ける人材を育成しようという方向性自体が間違っており、唯一自宅試験が残る大学院サブスタンスこそが、人間がAIを超えるクリエイティビティを発揮すべき唯一の場であるとも解釈できる。とはいえ、AIに勝てないからといって人間の数学力が下がっていいという事にもならないので、大学院メソッドの試験が易化し大学院生の数学力が下がっていく事への懸念は残る。なおこの議論は試験時間以内に解けるレベル・数の問題を出題するという配慮が前提となっているが、そうした配慮をせず教室試験で堂々と難問を沢山出す(そして当然のように平均点は半分を割っている)という科目も日本では見た事がある。そのようなショック療法的な試験が望ましいかはさておき、そうした極端な選択肢さえ検討に値してしまうほど、大学院メソッドにおける試験の未来は難しい問題のように思う。

*1:では具体的にどのような問題にすべきかと考えた時、言葉だけで厳密かつ独創性のある議論を行うのは限界があると考えた結果、数理ベースでサブスタンスを教える事で、試験でも数理的思考を応用して論述してもらおう、というのが上記の投稿で論じた事であり、紹介はしていないが実際に考えた作問例もある。

生産性型:R型とF型

まるで新しい血液型のような題名だが、似たような要領で人間を2つのタイプに分類してみようという試みである。これを思いついたきっかけは、同じくアメリカでPhDをやっている親友との会話である。自分は学期中は生産的に過ごしやすい一方長期休みに苦戦しやすいのに対し、親友はむしろ長期休みに生産的に過ごしやすく学期中は苦戦しがちなのだと言う。理由を考えてみた所、自分は毎日のスケジュールが規則的なほど生産性が上がりやすいのに対し、彼は毎日のスケジュールが柔軟なほど生産性が上がりやすいようである。それでR型(Regularity 規則性)とF型 (Flexibility 柔軟性)というわけである。

R型の人は、自分にとって最適な習慣を構築し実践する事で生産性が最大化されるため、規則正しい生活を好む。そのため起床時刻や就寝時刻は大体固定されていて、曜日ごとに決まったスケジュールで毎日を過ごそうとする。一方F型の人は、自分の気分に従って活動する事で生産性が最大化されるため、柔軟なスケジュールを好む。起床時刻や就寝時刻はバラバラで、自分の気分以外の要因によってスケジュールが左右されるのを嫌う。言い換えれば、R型の人は外的なペースメーカーを構築して自らをそれに合わせにいくのに対し、F型の人は自分自身が持っているペースを重視するという事である。

学期中は授業やワークショップなどの予定が多く入るため、R型の人はそれらをペースメーカーとして最適な生活サイクルを構築しやすいが、F型の人にとってむしろそうした予定は、自分自身のペースを乱す障害物とみなされる。逆に長期休みはほとんど予定が入らないため、R型の人にとってはペースメーカーがなく最適な生活サイクルを構築しづらいが、F型の人にとっては自らを邪魔する物が何もない最高の環境である。

このように自分のタイプがどちらかを自覚する事は、複数の点で重要だと思う。まず単純に、生産性を高める上で必須である。自分に合わないスケジュールで毎日を過ごしていては、生産性が上がるわけもない。次に、精神衛生上の重要性がある。R型の人が長期休みに苦戦しやすいのは当然だし、F型の人が学期中に苦戦しやすいのも当然である。これが分かっていると、「なぜ自分は今生産性が下がっているんだ」とわけも分からず自己嫌悪に陥るのを防ぐ事ができる。そして最後に、むやみに他人のワーキングルーティーンを真似したり、むやみに自分のワーキングルーティーンを他人に押し売りする事を防ぐこともできる。同じ生産性型の人のワーキングルーティーンを参考にするのは有益だが、生産性型の違いによって適切なアドバイスが真逆になりうるという事実は、一般にあまり意識されていないように思う。アドバイスの出し手・受け手の生産性型が一致している事を、まず確認しなければならない。

自分はこれまでアメリカの大学のあまりに長い夏休みを3回経験し、その度に自分の生産性がなぜ下がりがちなのかを悲壮感交じりに考察してきたが、今回が決定版である。長期休みが苦手なものは仕方ないので、教員になったら長期休みにも授業を教えられる機会を探す等して、長期休みを適切な長さに短縮するというのが最善策なのだと思う。

塾としてのTAセッション

今期は大学院の数理政治学の授業のTAをやっている。自分にとっては初めてのTAなので、どのようなTAセッションが良いTAセッションなのだろうかと考えながらやっているが、一つ思いついたのが「塾のようなTAセッションが良いTAセッションなのではないか」という事である。その心を説明する前に、そう思うに至った経緯を説明したい。

この授業は数理政治学と言っても、普通の政治学部のようにゲーム理論を教えているわけではなく(それは後期の授業)、二項関係を使って個人や集団の選好を分析するのが主な内容である。(xRyという表記を見た事がある人ならピンとくるだろうし、これを見た事がない人も、x≿yという表記ならどこかで見た事があるのではないだろうか。要は、個人あるいは集団にとってxとyという選択肢のうちどちらがより好ましいかという話を、数学的に小難しく表記しただけの事であるが、こうした簡潔な表記によって数学的な分析がしやすくなる。)そのため政治学部にしては中々抽象的で難しめの内容になっていると思うので、どちらかと言えば数学の授業に近い感覚でTAをしている。

実質的には数学の授業なので宿題は証明が盛り沢山なのだが、そこで先生から指示されたのが、「direct proof(素直にp => qを示す証明)が分かりやすいので、なるべくdirect proofで模範解答を作成しなさい」という事である。確かにdirect proofが分かりやすい場合はそれを使うに越した事はないのだが、必ずしもdirect proofが一番分かりやすい方法ではない場合もある気がする。そこでよく使われるのが背理法(帰謬法)である。背理法では「pだがqではない」と仮定して矛盾を導くが、これはつまりpとnot qという2つの条件が使えるので、pという1つの条件しか使えないdirect proofより活路を見出しやすい。ここで気が付くのが、「事後的にシンプルで分かりやすい証明と、事前の観点から思いつきやすい証明は必ずしも一致しない」という事実である。たとえシンプルで美しい証明でも、誰も思いつかないような天下り的な証明なら、学生にとって模範解答とは言えない。むしろ多少回りくどくても確実に多くの人が思いつくような証明が、学生にとって再現性のある「良い」証明である可能性が高いだろう。(これが、後者のような泥臭い証明は全員できて当たり前の数学科の授業なら話は別なのだろうが、これは文系が集まる政治学部の授業である。)

そう考えた時思い出されたのは、高校と塾の数学の授業である。高校の数学の先生は数学のエリートなので、普通の人が思いつかないような美しい模範解答を板書して、学生を置いてけぼりにしがちである。(そうして私は落ちこぼれ、数学で赤点をとった事もある。)だが塾の数学の先生は数学が苦手な学生の気持ちをよく理解しているので、学生にとって再現性のある、まさに先ほどの後者のような模範解答を提示する傾向にある。(そうして私は救出され、数理政治学を専攻する程度には数学が苦手ではなくなった。)したがって私が目指すべきTAセッションは、高校の時私を救ってくれたような、塾のようなTAセッションなのではないだろうか。数学が超得意というわけではない自分だからこそ、数学が苦手な人にも真似が可能な証明のコツを伝える事ができると思う。塾に行かずとも授業の中に塾のような存在がある、それが理想的なTAセッションの形ではないだろうか。

初APSA

初めてAPSAに参加した記録を残しておきたいと思う。基本的な要領はMPSAと同じで、今回はPresidents and Executive Politicsセクションでのプレゼンだったが、それ以外の時間は数理政治学セクションでプレゼンを聴きつつなるべくネットワーキングを試み、空き時間に観光するという過ごし方である。

Presidents and Executive Politicsセクションでのプレゼン

去年のMPSAでは数理政治学セクションで同じ論文を報告したので、今回はサブスタンス側の人の意見を聴ける良い機会だと捉えて参加してみた。サブスタンスのセクションでは恐らくあるあるだと思うが、オーディエンスは5,6人で、プレゼンターとDiscussantが人口の半分を占めるというこじんまりとしたパネルだった。(MPSAでは、間違えて入った部屋のオーディエンスが0人で、間違いに気づいて退出する時に気まずい思いをしたという事もあったので、5,6人来てくださっただけでも上々だと思う。)

人の少なさもあってそこまで気負わず報告できたが、たくさん練習して内容を覚えているはずでも、相変わらず本番は不安になってついスライドをたくさん見がちになるという前回の反省は繰り返される事になった。練習だけでなく、本番も数をこなす事で慣れるしかないのだろう。とはいえ、すぐ近くで聴いていた他のプレゼンターの一人が、自分が頷いてほしいタイミングで頷きながら聴いてくれていたので、一応きちんと内容は伝わっているという手応えは感じる事ができた。プレゼン中は話すのに必死なので、顔は部屋全体に向けていても意識は近くの人にしか及んでいない事が多いが、近くの人がそうやって頷いてくれるだけでも安心して話を進める事ができるので、今後も近くに一人でも頷いている人がいるかを意識しながらプレゼンをするようにしたいと思う。

APSAはMPSAとは違い、どの会場も大きなスクリーンがあって素晴らしい!

数理政治学セクション

MPSAはパネル数が多く、教員中心のパネルと学生中心のパネルに分かれているのに対し、APSAはパネル数が少なく、各パネルの報告者は教員と学生(就活中の5,6年生が中心)が半々といった構成である。したがってMPSA以上にselectiveであり、ここで報告しているという事が、数理政治学のジョブマーケットにおいて有力なcandidateである事を意味する。今年は数理政治学の公募はないが、もしあったとすればこの人達による競争が行われるのだなと想像しながら話を聴いていた。

MPSAでも感じた事だが、「10-15分の短い持ち時間になるべく内容を詰め込む」という典型的なミスを犯しているプレゼンが非常に多かった。ロチェスターの先生からは「学会では要点となぜその論文がクールなのかだけを話せ」と言われており、60分以上の長いプレゼンで言えばイントロダクションに当たる持ち時間しかないので、そのアドバイスは妥当だと思うし実際今回の報告でもそれを守ったつもりだが、明らかに過剰な量のスライドを高速で流していくので全く内容が入ってこないプレゼンが少なくなかった。公平性のために言うと、数理政治学セクションである以上はモデルを一切見せないのも変なので(特に就活目的の学生としては、モデラーとしての力量もアピールしておきたいはずである)、多少はモデルに言及するのも仕方ないと思う。とはいえ細かいセットアップを1つ1つ説明するのは明らかに過剰だし、ましてや聴き手にnotationを覚えてもらおうとする等もってのほかである。モデルに言及するにしても、コアの部分の説明だけで十分だろう。「時間が短いから早口で多くの内容をカバーする」のではなく、「時間が短いからこそかえってゆっくり丁寧に要点だけをカバーする」というアプローチの重要性を実感した。APSAの数理政治学セクションに通っている以上論文自体は質の高いものが多いはずだが、プレゼンのせいでそれが全く伝わっていない勿体ないケースが多かったので、来年以降自分はそうならないよう気を付けたい。

空出張でない事の証明写真のようなロケーションになってしまった

 

ネットワーキング

今回は少しずつネットワーキングも頑張ってみる事にした。就活本番ではなりふり構わずミーティングのアポをとりまくるべきだが、それはJob Market Paperが完成してから行うべきだと思うので、今回はそうではない形で少しずつ人脈を広げるアプローチをとった。指導教官からは「自分の事を知ってもらいつつ、かといってannoyingにはならないようバランスをとりなさい」とのお達しを受けており、確かに「勇気が出ず全然人に話しかけられない」という失敗も「逆にガツガツ行き過ぎて不快感を与えてしまう」という失敗も両方学生がやりがちな失敗だと思うので、他の人たちのネットワーキングを邪魔しない範囲で頑張って話しかけてみる事にした。(特にまだ業績がない学生の肩身は非常に狭いので、胸を張ってネットワーキングをできるよう早く業績を出したいという思いを強めた。)

ノルマとしては、既に話したことがある人全員に挨拶して自分の存在をリマインドする事と、1日1人は新しい人にも話しかける事である。今回は5人知り合いがいたが、無事全員に挨拶する事ができた。正直半分くらいの人は自分の事を覚えていなかったような気もするが、世の中知らない方が良い事もあると思うので、深くは考えないようにしたい。新しい人には3日の滞在で3人話しかけたので、一応ノルマクリアという事にしよう。またシカゴ大学修士をやっていた時のクラスメイトを見かけたものの、向こうが自分を覚えているか分からず話しかけるか迷っているうちにタイミングを逃してしまっていたら、後から「あれShunsukeだよね…?」というメッセージが来て、どうやら向こうも似たような心境だったようである。当時自分は修士1年生で相手が博士1年生、今は自分が博士4年生で相手が博士6年生である。あれから5年も経ったというのは信じられないが、修士課程はコロナ禍でオンラインだったので、5年越しにようやく対面で会えかけたのは感慨深かった。(ちゃんと話せていたらもっと感慨深かったが…)

新しい人に話しかける戦略については、指導教官から「パネルの途中や後にプレゼンターに質問すると話しかけやすいよ」というアドバイスをもらっていたので、実行してみる事にした。ただ大変なのは、上記のように内容が伝わってこないプレゼンが多い中で良い質問を考える事である。絶対に話したい人がいるなら論文を予習して臨むのもありだが、完成されたJob Market Paperを持ち込んでいる学生報告と違って未完成論文を報告している事も少なくない教員報告については、予習ができないケースも多い。論文がない場合、直前の空き時間などにプログラムに載っているAbstractに目を通しておくだけでも内容が多少頭に入ってきやすいとは思うが、それだけでは不十分な事も多い。そういうわけで良い質問をするのはかなり難しいのだが、集中して何か一つでも的外れでない質問を考えるしかないだろう。

結果として、元々の知り合い及び新しい人を合わせ3人とはその後のメールのやりとりまで行い深い交流ができた。メールのやりとりをすると相手側にフルネームの記録が残って名刺代わりになるし、対面と違って時間をかけて質の高い返答ができるので、これは良いやり方だと感じた。(アメリカのアカデミアでは名刺を渡す習慣が無い気がするので、メールが一般的なやり方なのかもしれない。名刺は失くされたら終わりだが、メールは確実に残るのでより良い手法だと思う。)今回はたまたま向こうから「メールを送ってくれたら論文を送るよ」と言ってくれたので自然とメールをやりとりする流れになったが、今後はそうした話の流れがなくても、「質問に答えてくれたお礼&フォローアップクエスチョン」という口実で毎回必ずメールを送っていきたい。(ただしannoyingにならないよう簡潔に!)

前にも述べた事があるが、ネットワーキングというのはほんの少し頑張るかどうかが長期的に大きな違いになって表れるものだと思う。パネルを聴きながら思いついた質問をまあいいやと流して帰ってしまうのか、思い切ってプレゼンターに聴いてみるのか、ほんの少しの差だがそれができるかどうかで知り合いの数は劇的に変わると思う。上でも述べたようにパネルを聴く事自体から得られるものはあまり多くないと思うので、パネルはネットワーキングの機会と捉えて前のめりで参加するべきだろう。

なお、今回は数理政治学セクションのレセプションへの参加は見送った。こうした立食パーティーの類は自分のような内向的な人間が最も苦手とするシチュエーションで、これを打開するには①人に紹介してもらう、②自分で頑張る、という2つの作戦があると思うが、頼みとなる指導教官のうち数理政治学者の先生は今回誰もAPSAに来ていなかったので、①は難しかった。②についても、今回は数理政治学セクションで報告していないので、同じパネルの人に話しかけるという技も使えず、話しかけるきっかけが思いつかなかった。自然なきっかけが無い中で無理に話しかけるとそれこそannoyingな学生になってしまう危険があるので、鋼のメンタルで話しかけまくるというのは、就活中は必要な事だと思うがそれ以外の時期はやめておいた方がいいだろう。来年こそはぜひ指導教官の誰かに来て頂いて紹介をお願いしつつ、数理政治学セクションで報告して自助努力もしたいと思う。

その代わりではないが、初めてAPSA日本人会に参加してみた。こちらについては知り合いの方がいたので心強かった。希少な数理政治学専攻の院生仲間とも繋がれたり、何人かの先生方ともお話する事ができたので、フライト直前で1時間の参加にはなってしまったが、参加して良かったと思う。先生方も皆さん気さくで緊張せずお話できた。アメリカ留学経験のある日本人の間に流れる、年齢関係なくフレンドリーに話すアメリカの文化と日本人の礼儀正しさが融合した独特の空気感は自分にとってバランスが良く、居心地がいい(年功序列による堅苦しい空気は苦手だが、かといってあまり関係性が近くない相手には同い年だろうと年下だろうと敬語で少し距離をとってしまう自分の性格には、最適なバランスである)。このブログをご存知の方に出会った時は身が引き締まる思いがしたが、アクセス数の半分は自分自身という弱小ブログから始まったこのブログが、知り合い以外にも読んで頂けるくらいに知名度が上がってきたのは素直に嬉しく思った。

バンクーバー観光

3日の滞在だったが、初日は興味のあるパネルが1つしかなかったのでビーチを散歩してみた。自分の目の画素数が落ちたのではないかと錯覚するほど絵画のように美しく映る夕焼けの海は、内陸の僻地に生息する自分にはあまりに眩しく、ビーチ沿いを優雅に犬と散歩するVancouveritesの姿は、地理的選好で就職先を選ぶ事のできない自分にとって老後のイデアとなった。(住民を意味する接尾辞に-iteというパターンがあるのは知らなかった。ちなみにロチェスター住民はRochesteriansである。)バンクーバーは日本人も多く、滞在中はほとんど和食を食べていたので接客してくれたのもほとんど日本人だった。外国というよりも日本カナダ支部というくらい日本のものに簡単にアクセスできるので、これまた羨望のまなざしを禁じ得ない。とはいえ普段アクセスできないからこそ時々手にできた時の喜びが倍増されているのは否めないので、ある意味最も幸せなのは私かもしれない。そういえば今回報告されていた論文にも、有権者は前期の政策をベンチマークとして、それと今期の政策との比較から効用を得ているというanchoring理論を用いた論文があったのだった。これは私自身がempirical testと言っても過言ではないだろう。そんな戯言を考えながら、初めてのAPSAは幕を閉じた。

2025年夏学期振り返り

ロチェスターで3度目の夏だが、今年は去年の反省を活かしてあらゆる策を講じた。まず「夏は報告する学会・ワークショップがないため短期的目標に乏しい」という問題に対しては、6月末に期末ペーパーの締切、7月半ばにDissertation Prospectus Defense (博論計画書の口述試験)、夏休み明けにAPSA、という形でちょうどよく1か月ごとに短期的目標を設定する事ができた。次に「夏は授業・ワークショップというペースメーカーがないためワーキングルーティーンが乱れがち」という問題に対しては、RAを2本引き受ける事でペースメーカーを確保する事にした。最後に「昨年は怪我で運動ができなかったためストレスを溜めがちだった」という問題に対しては、高校以来10年ぶりにサッカーチームに所属し、公式戦にも出場して週2回ほど積極的に体を動かした。このように万全を期して臨んだ夏だったが、それでも苦戦を強いられたというのは、7月の投稿を読んだ方なら想像に難くないと思う。

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上に挙げた3つの問題のうち、やはり2つ目の「ペースメーカーの欠如」が最も致命的な問題であるという実感に基づいて書かれたのが上記の投稿であった。これについてはRAにより対処しようと思っていたが、ペースメーカーという意味では本命だった校正RAについては、残念ながら先生もまた夏の魔物に連れ去られてしまったようで、ほとんど仕事が送られてこなかった。研究RAについては、「少し作業して研究に向けてエンジンをかける」という役割が期待される校正RAとは異なり、研究RAをしていたら一日が終わってしまい、研究RA自体は頑張れたものの自分自身の研究へのスピルオーバー効果はあまりなかった。そういうわけで真夏のRA大作戦は不発に終わり、夏にペースメーカーを用意する事は容易でない以上、ペースメーカーに頼らないワーキングルーティーンの構築が必須であろうというのが前回の結論であった。だが予告した通り、これは言うは易しの極限事例であり、継続は難しそうというのが本音である。

自分にとって研究は、英語学習と似たような存在なのだと思う。英語学習はそこそこ好きだが、あくまで仕事上必要だからやっているのであって、趣味と言えるほど好きではない。同様に、研究は仕事としては好きだが、趣味として四六時中没頭できるほどには好きではない。英語学習も研究も趣味としてやっている人は一定数いて、そういう人達の方が明らかに伸びが速いので羨ましいが、自分には真似できない以上、あくまで仕事としてルーティーンを確立していかねばならないだろう。言い換えれば、これだけ長く続けられている英会話でさえペースメーカーに支えられた習慣である以上、研究もまたペースメーカーによる補助が必須であり、内面化された習慣とする事はどうやら自分には向かなさそうである。

では来年以降の夏をどう過ごしていくべきかという話だが、「夏に単著を進めるのは諦め、RAや共著に全振りする」という割り切った作戦が良いかもしれない。学期中は授業やワークショップといったペースメーカーを利用して単著を進め、ペースメーカーのない夏は、一人で頑張ろうとするのではなく他者と協力して乗り切るという方針である。やはり自分は精神論者ではなく制度論者であり、自分の尻を叩くよりも頭を捻る方が問題解決に繋がるという事実を再確認するのが、自分にとっての夏という季節のようである。

政治学専攻のモーニングルーティーン (後編)

前回の投稿をふまえ、1ヶ月間ロイター英語版を購読してみた。そこで感じたのは、「見出しを読める速度が日本語と英語とでは段違いであるため、日本語の方が効率的に読みたい記事を見つけられる」という事である。前回計測してみたように見出しを読む速度には倍の違いがあるが、これは日本語なら流し読みする(内容を100%ではなくざっくり理解できるスピードで読む)事ができるが、英語を流し読みするのは難しいという事に起因するのだろう。そのため「大量の見出しに目を通しながら自分が興味のある記事を見つける」という作業は、英語よりも日本語の方が適している事が分かった。(言い換えれば、英語の記事を読む行為と、英語の見出しの流し読みを通じて読みたい記事を見つける行為とは別次元の営みであり、前者に慣れている人であっても後者は難しいという事だろう。後述のように読み始めたEconomistの記事には「〇分で読めます」という表示がついているのだが、大体これ通りに読み終わっているので、記事を普通に読むスピードに関してはネイティブと大きな差は無いと思う。流し読みができるかどうかがネイティブとノンネイティブとの決定的な差なのだろう。)また、朝一番に目覚ましがてら読むにはやはり日本語の方が適しているとも感じた。

したがって大量の記事を扱っているロイターについては日本語版で読む事にしたのだが、ロイター日本語版だけでは物足りなさがあって英語版にも手を出したという経緯があったので、Wi-Fi問題に目をつむってBBC日本語版を復活させる事にした。めでたく「質のBBC&量のロイター」の布陣が復活したわけだが、その2つだけでは物足りなさを感じる事もあるので、3番手としてもう一つサイトを加える事にした。日本語でこれ以外に気に入っているサイトはないので必然的に英語のサイトになるが、まず候補に挙がるのはロイター英語版である。これは、ロイター日本語版ではカバーされていないニュースを求めて、「量をさらにプラスする」という方向性である。だが上で述べたように英語で大量の記事を扱うのは大変なので、「質をさらにプラスする」という方向性の方が良いかもしれない。

素直に考えるとBBC英語版には日本語版のような面白い記事がより多くあるのではと期待するのだが、残念ながら興味のある記事が追加的にそこまであるわけではなかった。この方向性も空振りかと諦めかけた時、かつて購読していたEconomistの存在を思い出した。Economistは一応日刊紙もやっている体はとっているもののメインは週刊紙なので、毎日ニュースをチェックするという習慣とは相性が悪いと思い、候補から外してしまっていた。だが3番手として気が向いた時に読むもので必ずしも毎日チェックするわけではないのであれば、日刊紙にこだわる必要もなくなる。むしろ少し目を離した隙に次から次へとコンテンツが更新され、そして埋もれていってしまうのは勿体ない気もするので、3番手には週刊紙くらいがちょうどいい気もする。そういうわけで、日本語版BBC&ロイターを軸としつつ、3番手としてEconomistを試してみる事にした。

久しぶりに読んでみると、やはりEconomistの記事は面白い。経済ニュースについてはBloomberg、Financial Times、Wall Street Journal等も充実していると思うのでまた違うのだろうが、政治ニュースについてはBBCとEconomistが双璧を成すように感じる。では購読するのはこの2つだけでも良いのではないかとも思うが、BBC日本語版は記事が少ないので興味のある記事が毎日あるとは限らず、やはり一日の最初は日本語ニュースを読むところから始めたいので、バックアップとしてロイター日本語版も間に挟むのが良さそうである。BBC、ロイター、Economistは全てイギリスメディアで、前回紹介したようにまるでアメリカメディアを全く信用していないアメリカ人のようだが、最初の投稿で紹介したバイアス測定のサイトでもこの3メディアは最も小さな水準にあるので、イギリスメディアが信用されるのも理由があるのだろう。

しばらく「日本語版BBC&ロイター、時々Economist」という組み合わせを続けてみた結果、これは自分の中での正解だという事が分かった。「短期的視点か長期的視点か」「狭く深くか広く浅くか」という2×2でニュースサイトを分類するなら、

  • BBC…短期的視点で狭く深く
  • ロイター…短期的視点で広く浅く
  • Economist…長期的視点で狭く深く

といった感じでそれぞれ性格が違うので、記事の重複があまりなく複数読んでいる価値を感じられる。これでめでたく私のモーニングルーティーンが完成したわけである。(厳密に言うとニュースは朝以外にも気が向いた時に読んでいるので、アフタヌーンルーティーンだったりナイトルーティーンだったりもするのだが。)

最後に、最終的に到達した習慣だけを書くのではなく、冗長の誹りを承知でなぜそこに至るプロセスを長々と書いたのかという話をしたいと思う。数学の問題を解く時に、答えを見るだけでは他の問題に対応できるようにならないので意味がなく、答えに至るまでの思考プロセスを学んで初めて意味があるように、こうした生活習慣に関しても、人によって合う習慣は違う以上、私の「答え」だけを見てもあまり意味がないのではないかと思う。私の辿った思考プロセスが、読者の方々がそれぞれに合った習慣を考える上で少しでも参考になれば嬉しいなという思いで私はブログを書いている。その意味でこのブログはノウハウ提供サイトではなく、私が右往左往する様を高笑いしつつ読者の皆さんが自ら考えるきっかけを提供する、触媒のようなものを意図している。

ペースメーカーと習慣

努力を続けるためのコツとして、「習慣化」という事がよく言われる。一度習慣化してしまえば努力の精神的コストが下がり、ますます努力を続けやすくなるという話である。だが習慣の中にも、「ペースメーカーに頼ったものと頼らないもの」があると思う。例えば私は大学生以来毎朝の英会話を習慣としているが、これはペースメーカーに頼った習慣である。すなわち、事前予約によってコミットし「サボると費用がもったいない」という気持ちに訴える事で、継続する事が出来ている。もしこれがコミットメントや費用を伴わない自分一人のスピーキング練習なら、ここまで続ける事ができたかは分からない。他方、毎日歯磨きをするという習慣にはペースメーカーが存在しない。ただそれをするのが当たり前で、しないと気持ちが悪いのでするだけである。こうした外的なペースメーカーに頼らない習慣を、「内面化された習慣」と呼ぶ事にしよう。

なぜこんな話をしているかと言うと、夏休みは研究を内面化された習慣とする事が求められる時期だからである。学期中は、授業やワークショップを毎日大学に来て生産性を保つためのペースメーカーとする事ができるが、それらがない夏休みに生産性を保つのは大変である。思えば高校生までは、夏休みに夏期講習というものがあった。とりわけ高3の夏休みは、夏期講習をペースメーカーとする事で自習も捗り、結果的に一日も無駄にする事無く勉強を続けられたと記憶している。この際夏期講習の内容が大して役に立たずとも構わない。毎日家を出て自習室に向かう習慣を形成するのに役立ちさえすれば、その役割は十分果たされていたのである。そう考えると、夏期講習というシステムがいかに画期的な存在であったかに気が付かされる。というのも、同じ事を大学(院)生に当てはめようと思っても、該当する存在は中々見つからない。一応大学(院)生にもサマースクールのような夏季集中講義の類はあるが、時期が短く夏休み全体のペースメーカーにはなり得ない。夏期講習のようなペースメーカーがない以上、夏休みに研究を進めるには研究を内面化された習慣とせざるを得ない。

うちの大学の先生達を見ていると、研究者の中にも、研究をペースメーカーに頼った習慣にしている人と、内面化された習慣にしている人とがいるように思う。学期中の生産性については2つのタイプに大きな差は無いものの、夏休みの生産性については決定的な差が生じる。夏休みだけでも2つの学期を合わせた研究時間に匹敵する時間があると仮定すると、1年あたりの業績を出すスピードでは倍の違いが出る事になる。

だがこれは言うは易しの極みのような事例であり、どうすれば研究を内面化された習慣とする事ができるのだろうか。とりわけ、授業さえこなしていれば良かった博士前期課程から、コツコツ研究を進めねばならない博士後期課程への移行期に当たり、今まさに研究者としてのワーキングルーティーンを形成する真っ只中にいる私のような人にとっては、喉から手が出るほど知りたい問いである。

私が今思いつく事としては、「途切れさせない事」が重要だと感じる。習慣化の過程において、一度途切れた習慣を復活させる事は、継続している習慣をさらに継続させる以上に難しい。なので、一日中研究しなくても良いので、毎日少しずつでも研究を続ける事が重要だと感じる。「昨日中途半端な所でやめたのが気持ち悪いので、早く続きをやりたい」という気持ちを利用するのである。しかし時間が経てばこの気持ち悪さは記憶と共に消えてしまうので、間を空けない事が重要である。

そう考えると、以前論じた休日制度はもしかすると無い方が良いのかもしれない。そもそも休日は、学期中は授業やワークショップが無い土日という事で制度化されているのに対し、夏休みについては土日に休む言われはない。したがって夏休みについては固定の休日を廃止して原則毎日研究し、気分転換が必要と感じたら適宜休みを取るという方式の方が良いかもしれない。元々休日制度は、ダラダラと勉強・研究する事を避けメリハリのある生活を送るために導入した制度だった。確かに学期中はペースメーカーを利用してメリハリのある生活を送る事も可能だが、ペースメーカーのない夏休みにメリハリのある頑張り方をするのは困難なので、夏休みはダラダラとでもいいので毎日少しずつ頑張る事が重要なのだと思う。実際これまでの感覚からすると、休日制度は学期中はそこそこ上手く機能していたのに対し、夏休みには全く機能していなかった。したがって、休日制度は学期中については継続した方が良い可能性もあるので要検討だが、夏休みについては即刻廃止しようと思う。*1

習慣化を始める段階でいきなり毎日フルに研究しようとすると気が重いが、まずは歯磨きをするような感覚で、短時間でも毎日研究する習慣を形成していきたいと思う。

*1:学期中についても、今の所休日制度廃止の方向に傾いている。というのも、授業ベースの生活を送っていた2年生までは休日制度がしっくりきていたのに対し、研究ベースの生活に移行した3年生では(夏休みに比べればマシとはいえ)あまり上手くいっていなかったように感じるからである。(上手くいっていなかったからこそ、休日制度を再検討するような投稿をしたのだろう。)ではなぜ研究ベースの生活に休日制度は合わないのだろうか。まず休日を挟んだ週明けにモチベーションが低下しがちなのは、研究者を含めておよそ万人に当てはまると仮定しよう。学生や普通の仕事なら、モチベーションが低かろうと強制的に働かされるので、嫌でもやっているうちに作業興奮(一度やり始めるともっとやりたくなる現象)によりモチベーションを取り戻す事ができるが、研究はサボろうと思えばサボれてしまうため、低いモチベーションを強制的に上げるきっかけがない。したがって、毎週休日明けにモチベーションが下がるのは研究者にとってあまりに大きなリスクであるため、いっそ休日はとらない方がよいという事ではないだろうか。

政治学専攻のモーニングルーティーン (中編)

前回、自分なりに正解と思しきモーニングルーティーンに辿り着いた話を紹介した。国際ニュースを読み始めた部分以外はこれまでも行っていた事だったので既に内容が固まっていたが、国際ニュースについては新しい習慣という事で、まだまだ試行錯誤の途中である。今回の記事では私が右往左往する様を記しておきたい。

前回述べたようにBBC日本語版が気に入ったものの、さすがに記事が少ないので記事の多いロイター日本語版で補完し、「質のBBC&量のロイター」という組み合わせで1週間ほど購読(といっても無料)を続けてみた。これはかなりしっくりきていたものの、それぞれに重大な欠点がある事に気が付いた。

まずBBCは、ちょうど最近アメリカからアクセスするユーザーのみ有料化する事を発表した。一見すると非合理な改革だが、これには頷ける点もある。というのも、ニュースサイトのアクセス者1億3900万人のうち、6000万人が何とアメリカからのアクセスとの事である。BBCは一義的にはイギリス人のための公共放送であるにもかかわらず、アメリカ人があまりにも正の外部性を受け過ぎているのであれば、その分を補填せよというのもやむなしかもしれない。というか、アメリカ人BBC見過ぎではないだろうか。よっぽどアメリカのメディアを信用していないという事だろう。ある調査によると、BBCは「アメリカ人が信頼するニュースメディアランキング」で、The Weather Channelに次ぐ第2位である。流石にお天気ニュースに政治的バイアスは無いと思うので(気候変動を意図的に伝えない等のバイアスはもしかしたらあるかもしれないが)、BBCが実質的にアメリカ人が一番信頼するメディアという事だろう。かくいう私も、アメリカのメディアは党派性が気になるため海外のメディアを通じてアメリカ政治のニュースを得ようとしているので、気持ちはよく分かる。

話を戻すと、BBCが有料化すると言っても日本語版は引き続き無料のようなのでそれ自体は構わないのだが、その影響か我が家のWi-Fiとの相性が悪く、いちいちWi-Fiを切らないとBBCにアクセスできないという面倒な事態が発生した。これは日本語版も同じで、毎日の習慣となるとこういうちょっとした煩雑さが致命的だったりする。そういうわけで、コンテンツ的には素晴らしいものの早くもBBC愛が冷めてしまった。ロイターに関しては、日本語版でもそれなりに記事数があるのは素晴らしいのだが、そうは言っても英語版に比べると記事が絞られており、個人的に興味のある記事が英語版にしか載っていない事も多かった。かくして、一時は盤石な布陣と思われた「日本語版BBC&ロイター」の構えが崩れる事となった。

上記を踏まえ、いったん日本語にこだわるのをやめ英語サイトまで含めて再検討した結果、ロイター英語版を読む事にした。他にも候補はあったのだが、メディアのバイアスを計測しているサイトは前回紹介したもの以外にもいくつかあり、サイトによって結果にもブレがあるが、ロイターだけはどのサイトを見てもMiddleやLeast Biasedと評価されており、最も信頼できるニュースサイトの一つだと判断したからである。あからさまに右寄り・左寄りな編集がされていれば読んでいる側も分かるので良いが、やや右寄り・やや左寄りというのが厄介で、読んでいても気が付く自信が無いので、長期間購読しているうちに知らず知らず考え方に影響を受けているかもしれないと思うと怖いものである。理想的には右から左まで複数のニュースサイトを読み比べてバランスをとるのがベストだと思うが、ニュースに対してそこまで強い興味が無い私のような人にとっては、1つだけ選ぶのであれば、様々な機関からバイアスが小さいと評価されているニュースサイトを選ぶのは一つの策であるように思う。また、最初は破格な購読料で読者を誘い込み、気が付くと高額な定期購読料にシフトしているという悪徳商法が蔓延る中、固定で月$4というロイターの購読料は非常に良心的であった。

ちなみに英語版のニュース記事を読むようになって感じるのが、「見出し画像の重要性」である。画像から得られる情報は特に無い場合が多いので、見出し画像はむしろ無い方が、一画面に表示される記事が多くなり良いのでは?と最初のうちは考えていた。しかし見出し画像が無い場合何が起こるかというと、「全ての記事の見出しを読まなければならない」という事態である。私の場合日本語なら1.5秒で読める見出しも英語なら3秒かかる(実際に1分間でいくつの見出しを読めるか測ってみた所、日本語が40記事程、英語が20記事程だった)ため、全ての見出しを読んでいては早々に疲れてしまう。そこで見出し画像の出番である。画像を見ればどんなトピックの記事か大体推測できるので、興味がなさそうな記事は見出しを読む事なくスキップでき、効率的にニュースをチェックする事ができる。ほぼすべての記事に画像が付いているというのはデジタルニュースならではの強みであり、これを活用しない手はない。

まとめると、「日本語版の方が気軽に読めるが、英語版の方が面白いコンテンツが充実している」というトレードオフに対する現在の私の答えは、「普段は面白さを優先して英語版を読むが、日本語を読みたい気分の時は日本語版を読む」というスタイルである。また、英語版は記事が多いぶん個人的に重要なニュースを見落としてしまう可能性があるが、記事が少ない日本語版は網羅的にチェックが可能なので、両方チェックするというのも良いかもしれない。今はまだ数週間の試行錯誤の末の暫定版モーニングルーティーンだが、今後更新が無い場合は「便りが無いのは良い便り」という事で、無事に決定版モーニングルーティーンになったという事である。

政治学専攻のモーニングルーティーン (前編)

モーニングルーティーンと言えば芸能人がスキンケアをしたりランニングしたりする様を想像するのが一般的だが、研究者のモーニングルーティーンとはいったいどのようなものだろうか。私は最近ようやく自分自身の答えに辿り着いた気がするので、上手くいけばこの先一生続くルーティーンが始まったのはこの時期だと後で分かるよう、記録を残しておきたい。なお、定点カメラで映像を撮ってYouTubeに投稿したりする予定は全くない。

起床時刻はプライベートな情報な気がするので、t時としよう。(毎日の起床時刻を世界に向けて公開するという事は、寝込みを奇襲される可能性を著しく上げる事になる。)私が辿り着いたモーニングルーティーンは以下の通りである。

t : 00 起床→ベッドで寝転がりながらニュースを読む

t : 15 洗顔・寝ぐせ直し等→最後にコップ一杯の水を飲む

t : 30-55 英会話で論文を読む

1つ目のこだわりは、目覚ましがてらニュースを読む事である。十分な睡眠時間を取っていても、起床後10-15分くらいは頭がぼーっとしてベッドから出たくないものである。このタイミングでとりあえずスマホを見ながら脳を起こすという選択を取る人が多いと思うが、問題はそこで何を見るかである。毎日見るものなので、コンテンツは毎日更新されるものが嬉しい。一日の始まりなので、なるべくハッピーな気分になれるものであれば尚良い。多くの人にとってこれは、SNSになるのではないだろうか。私自身もそうした時期が結構長かったが、やはりこの時間をイマイチ有効活用できていない感覚が拭えなかった。そこで「毎日更新される面白いコンテンツ」としては「自分の興味のあるジャンルのニュース」が楽しめつつタメになるという上位互換である事に気が付き、私の場合は国際ニュースを読む事にした。

ニュースサイトについては、なるべく信頼できるソースが良いという事で、複数の大学の図書館サイトでも紹介されている以下の図を参考にする事にした。左右は分かりやすく政治的バイアスを示していて、上下は質の高さを示しているようである。ここでは全体像を見せるために引きの図を紹介しているが、気になる真ん中の一番上のエリアを拡大(リンクはこちら)して有名なものを列挙すると、世界三大通信社であるロイター、AP通信、AFPの他、BBCBloomberg、Financial Times、Wall Street Journal辺りが候補になるだろうか。以前私が英会話の教材として使っていたThe Economistもここに該当する。英語は目が覚めてから読みたいので、起床直後に寝ぼけ眼で読むには日本語の方が都合が良い。また自分は経済ニュースより政治ニュースに関心があるので、経済紙は避けたい。そして何よりも、自分が面白いと感じるコンテンツが充実していなければならない。(はるか昔に日経新聞を購読するという真面目大学生ムーブをかましている時期もあったが、心から面白いと思っていなかったためか1年以内にやめてしまった。)こうした条件を考慮しつつ色々なサイトを見てみた所、今の所はBBCが一番良さそうな気がしている。無料にもかかわらず解説記事など中身の濃い記事が充実しているのは驚きである。ただBBCの日本語版は1つ1つの記事は中身が濃いが記事数が少ないという欠点があり、1つ1つの記事は短いが記事数が多いロイターやAFPと組み合わせて読むのが良いかもしれない。

次のステップで特筆すべき点としては、コップ一杯の水を飲む事だろう。これは願掛けの儀式などではなく、単純に冷たい水を飲むと頭が冴えるからである。調べてみると、医学的にも色々メリットがあるようである。その後は以前の記事でも紹介したように論文を使った英会話をして、起床後1時間のモーニングルーティーンの完成である。

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このモーニングルーティーンのポイントとしては、「ニュースを通じて各国政治の最新情報に触れる」&「論文を通じて各国政治の深堀りした議論に触れる」という形で、政治学者として広く浅く知見を蓄えようと試みている点である。研究者は細かい専門分野を持っていて、その分野に関して狭く深く知見を極めるだけでも専門家としてやっていく事は十分可能に思える。だがそれに加えて自分の周辺分野に関しても広く浅く知識を持っておく方が、周辺分野から着想を得られたり、周辺分野の人と議論しやすくなったりというメリットはあるだろう。あるいは、学部生からすれば細かい専門分野の違いなど知ったこっちゃないので、自分の専門分野ではない時事的な内容について質問される事もあるかもしれない。その際「自分の専門分野ではないので分かりません」と答えて学生をシラケさせるよりも、「自分の専門分野ではないので詳しくは専門の先生に聴いてほしいのですが、こういう研究があるようです」と答える方が、教員として誠実な対応な気もする。自分の場合は国内政治の数理を専門としているが、国内政治に関する理論研究に限らず実証研究にも目を通したり、各国の政治について今起こっている問題を表面的にでも知っておく事は、数理政治学者である前に政治学者として、やはり重要なのではないかと感じる。

とはいえ、研究者は興味で動く生き物なので、面白いと感じない事を続ける事は難しい。自分の場合はこの傾向が特に顕著で、嫌な事をストイックに続けるというのは試験前などの期限付きなら可能でも、無期限にそれを続けるのは困難である。したがって、いかに無理なく楽しく続けられるかという観点で構成されたのが上記のモーニングルーティーンである。研究者のモーニングルーティーン大公開時代が到来した暁にはその走りとして胸を張れるよう、日々の朝活に取り組んでいきたい。