昨年秋学期は経済理論のトピック科目を1つ履修、1つ聴講する事で理論学習を集大成しつつ、政治学部の要件であるComprehensive Literature Surveyを書くという学期だった。他の大学ではComprehensive Examという博士前期課程の終わりに行われる試験を通じて知識のインプットを確認するのが一般的だが、うちの学部は試験の代わりにサーベイ論文を課す事になっている。いずれも体系的な知識のインプットが求められる点は同じだが、試験の場合は自分が専門とするサブフィールドについて広く浅く知識を整理する事が求められるのに対し、サーベイ論文の場合はよりspecificに自分が専門とする研究テーマについて狭く深く知識を整理する事が求められる。メソッドについては授業でも試験が行われるので改めて似た内容の試験を行う意義がよく分からないが、サブスタンスについてはどちらの形式にも良さがあると思う。
試験の良さとしては、TAに必要な知識を確認できるという点が大きいと思う。サブスタンスのTAは基本的に学部の授業を担当すると思うが、学部の授業は基本的な知識を広く浅くカバーするので、そのサブフィールドの試験を通過した学生になら安心してTAを任せられると思う。他方サブスタンスの試験が無いうちのような大学では、「TAをしている授業の内容が初見」という事が容易に起こりうる(そのような声は、「比較政治学入門」のような総論的な授業についてすら先輩達から実際に聞いた事がある)。大学院のサブスタンスの授業は講義ではなく議論、試験よりもペーパーによる評価が基本的で、研究に繋げる事を意識してインプットよりもアウトプット重視の形式になっているため、授業を受けたからといって知識の習得が保証されているわけではない。試験をパスする事で、胸を張って専門とするサブフィールドを名乗れるようになるというのは大きいメリットだと思う。
サーベイ論文の良さとしては、自分の研究に直結する知識を得られるというのが大きいだろう。個別の研究をしていく上でもLiterature Surveyは行うが、その研究と直接的に関係する狭い範囲の先行研究を整理した上で自分の研究とどのような関係にあるのかを示すのが目的なので、自分が専門とする研究テーマ全体を概観する機会というのはサーベイ論文を書かない限り中々ないと思う。サーベイ論文を書く過程でLiteratureの中で手薄な部分が分かりリサーチクエスチョンも見つかるので、本格的に研究を開始する前の知識の整理としてはこれ以上ない機会であるように感じる。
これらを踏まえどちらの形式がより良いかという事については、学生の負担を度外視すれば「どちらも課すべき」ということになるのだろう。試験はティーチング、サーベイ論文は研究の準備が完了している事を示すものなので、そもそも目的が違う。とはいえ学生の負担を考え、強いてどちらかを選べという事であれば、サーベイ論文の方が良いのではないかというのが私の考えである。
理由は2つあり、1つ目は、現在は就職のために学生のうちからトップジャーナルでの業績が求められる時代なので、勉強から研究にスムーズに移行するために、研究に直結する形で知識を整理する事が重要だと思うからである。2つ目は、政治学は理系分野や経済学と比べると理論的体系性の低い発展途上の分野なので、先行研究を広く浅く覚える学習にどれだけ意味があるか疑わしいと思うからである。言い換えれば、理系分野や経済学であれば「これ1冊頭に入っていれば大体OK」という大学院レベルの定番の教科書が存在するが、政治学のサブスタンスにはそのような教科書が存在しない。それだけ「確立した知見」が少なく、先行研究は暫定的性格が強いものという事だろう。であるならば、日進月歩で更新されていく先行研究を覚える事自体にそれほど価値はなく、自分の研究と関係がある範囲で現状の到達点を把握しておくのが、政治学における先行研究とのより良い付き合い方ではないだろうか。将来的に政治学の理論体系が発展し大学院レベルの定番の教科書が存在するような時代になれば試験の重要性は増すと思うが、政治学の現状をふまえると試験のメリットはあまり大きくないように思う。そうは言ってもTAが授業内容を初見では困るのではないかという意見もあるかもしれないが、サブスタンスについては理解が困難なものではないので、TAを通じてTA自身も学べばよいのではないかと思う。内容自体が初見だとしても、先行研究を整理して理解する力はサーベイ論文の執筆や研究を通じて培われているはずなので、学部生より授業内容を早く理解しサポートする事は十分可能なはずである。
パブリッシュされているサーベイ論文はその研究テーマの第一人者が書くのが基本なので、学生の段階で書いたサーベイ論文がすぐさまパブリッシュされる事はまずないと思うが、研究を続けながら内容をアップデートし自分自身の研究も多くサーベイに含められる頃には、実際にパブリッシュできる事もあるだろう。それがこの先10~20年間の目標である。もっと言えば、そのサーベイ論文(ドラフトを含む)を軸にした大学院のトピック科目を教え続け、キャリアが終わるまでに教科書として出版するのが目標である。
新年最初の投稿なので、今年の目標についても書いておきたい。ようやくsubmitできそうな2nd-year paperを可及的速やかにジャーナルにsubmitする事、続けて3rd-year paperも2025年内にジャーナルにsubmitするのが目標だが、より長期的な視点で重要なのは、ワーキングルーティーンの確立である。ロチェスター大学政治学部における3年生は、授業を多少取りつつも授業メインの1, 2年生とは異なり本格的に研究を開始しTAも始まるという、博士前期課程から博士後期課程への移行期に当たる。自分は他の人よりも取りたい授業が3年生に多く残ったので、結局TAは4, 5年生に回した。他の学生は基本的に3, 4年生でTAをするが、まだ授業が残っている3年生でのTAは自分にとって単にworkloadを増やすだけの一方、5年生でのTAはペースメーカーとしてむしろ有益だと感じたからである。成果主義のクリエイティブな職業は裁量労働制が必然的に伴うが、どのように働くかを完全に自由に決められる状況でコツコツと頑張り続けるのは、いわば大学入試で宅浪をするようなストイックさが必要になる。ほとんどの人は学校や予備校の授業をペースメーカーとして受験勉強をすると思うが、中には一切ペースメーカーなしに努力を続けられる希少な人もいると思う。残念ながら自分にはそのような特殊能力はないと昨年痛感したので、受ける側であれ教える側であれ授業をペースメーカーとする事で研究を進めていく事が重要である。作家のような純粋な裁量労働制ではなく、裁量労働制と固定時間労働制のハイブリッドである大学教授・大学院生の仕事は自分に合っていると思うが、自分にとってしっくりくるワーキングルーティーンを確立し生産性を一定に保つためにはやはり試行錯誤が必要である。20代前半までは「何も考えず気合いで頑張る」という事ができていたように思うが、年を重ねて意志の力が弱まったのか、「自然と頑張れるよう制度的に自分を導く」事の重要性が高まったように思う。授業がある学期中は生産性を保つのは比較的容易だが、長期休み中にそれをキープする方法は未だ模索中である。ここで博士後期課程へのtransitionを成功させて生産的な研究者となれるかが今後の人生を分けると思うので、もうしばらくは試行錯誤が続くと思うが、ワーキングルーティーンを確立し研究生活を軌道に乗せるのが2025年の最大の目標である。
以下では先学期の授業についても簡単に触れておく。
Advanced Economic Theory
授業の前半では意思決定理論を体系的に学習した。政治学では期待効用理論しか勉強しないのが普通だが、期待効用を形成するために必要な確率分布が分からない場合に、それでも合理的な意思決定を行うためにはどうすればよいのだろうか。面白いと思った例としては、確率分布(これ自体が不確実性に対する信念)に対する信念というSecond-orderの信念を考える事で、リスク態度(First-orderの不確実性に対する選好)ならぬAmbiguity態度(Second-orderの不確実性に対する選好)を反映した意思決定ができるという事である。言い換えれば、リスクのある投資を好むかという話と、そもそもどれくらいリスクがあるかが分からない投資を好むかという話である。後者ではそのような投資は好まないのが自然なので、ワーストシナリオを想定して効用を最大化するmaxmin効用を考えるのが最適になる。このように、Ambiguity Aversion(曖昧さ回避)といった公理を置いて、その下でmaxmin効用のような意思決定のルールを導出するのが意思決定理論である。この際公理から自明でない意思決定のルールが一意に導出されると面白く、評価されるというのは理論一般と同じのようである。直接研究に活かせる機会はあまりないかもしれないが、合理的選択理論の基礎はゲーム理論以前に個人の意思決定なので、これを体系的に学習できる機会は貴重なものだったと思う。
授業の後半は前半と少し関連性があるが、Higher-Order Uncertaintyに関するものだった。意思決定理論では個人の意思決定に関するHigher-Orderの不確実性が問題になっていたのに対して、このパートではゲームにおけるHigher-Orderの不確実性が扱われた。ゲーム理論を学ぶときにはCommon Knowledgeの仮定(プレイヤーAは〇〇というゲームのルールを知っている、プレイヤーBも〇〇というゲームのルールを知っている、Aは「Bが〇〇を知っている」事を知っている、Bも「Aが〇〇を知っている」事を知っている、Aは「Bも「Aが〇〇を知っている」事を知っている」事を知っている…)というのがさりげなく登場しその意味を深く考える事は通常ないわけだが、これが成り立たない場合、あるいは部分的に成り立つ場合(Common p-Belief: pが高ければCommon Knowledgeに近い状態)に何が起きるかを考えるのがHigher-Order Uncertainty研究である。この授業で学んだ最も重要な事は、被支配戦略の逐次消去(IESDS)によって求められるゲームの解はナッシュ均衡以上に予測精度の高い解であり(その分これで解が求まるようなゲームは稀で、だからこそナッシュ均衡がよく使われる)、逐次消去の過程ではHigher-Order Uncertaintyが重要になるという事である(相手がどのような確率で各行動を取るかを予想するためには、相手の信念に対する信念を形成しなければならない)。政治学に応用できる範囲はそれほど広くないかもしれないが、あまり応用される事が無い分、これを応用する事で新規性のある面白い研究ができそうな予感もする。
授業全体を通じて不確実性下の意思決定を体系的に学習する事ができ、大学院で体系的な講義を受けられる事の重要性を実感した。定番の教科書が存在するコア科目はもちろん、必ずしも教科書が存在しないトピック科目でもこれだけ体系的な授業が行えるというのは、先生個人の力量ももちろん重要だと思うが、分野の成熟度による所もあると思う。政治学の数理ではコア科目ですら教える内容が完全に固まっているわけではない(具体的には、ゲーム理論は当然勉強するとしても、それ以外のフォーマルモデルをどれくらいどのように教えるかは授業によって異なるし、応用理論についても近年定番になりそうな教科書が出版され始めてはいるが、数が少なく競争も生じていないので、まだ確立したとは言えない状況である)ので、トピック科目が単なる論文輪読ではなく体系的講義として行われるようになるのは政治学ではずいぶん先の事かもしれないが、自分も最終的にそうした体系的講義を目指して大学院のトピック科目を育てていきたいと感じた。
Game Theory & Econ Mech
こちらはFair Allocation(公平な資源配分)に関する授業である。経済学で資源配分と言えばまず考えるのは効率的な(すなわち無駄のない)配分だが、非常に不公平な配分も効率的になりうるので、公平な資源配分を考えたい。具体的な公平性の基準としてはNo-domination(ある人よりも全ての資源についてより多く配分されているような人が存在しない事)や、No-envy(全ての人について、自らの配分を通る自身の無差別曲線の下側に他全員の配分が位置している事)が考えられる。こうした公理を様々な状況(例えば、通常の財以外にも、時間、非分割財、single-peaked preference下での私的財・公共財など)に応用した時にどのような配分ルールが得られるかを考えていく。この授業もまた、公理から自明でないような配分ルールが一意に導出された時に面白さを感じる事が多かった。授業を担当するWilliam Thomson教授は70代後半になってもトップジャーナルへのパブリッシュを続けるだけでなく、授業への熱意も強くレクチャーノートを教科書として出版している。年齢を感じさせないクリアな頭脳と健康的な風貌もあって、「自分もこういう70代を過ごしたい」と思わせてくれる先生だった。