現在は実証研究中心の時代と評される事が多い。だが経済学においては理論研究中心の時代を経て、現在は実証研究がキャッチアップしている時代と考えれば、長い目で見ればこれは必ずしもアンバランスなトレンドとは言えないと思う。一方、体系的な理論をさほど発展させてこなかった政治学が経済学の真似をして実証研究ばかり推進するのは、アンバランスであると言わざるを得ない。どんな分野においても理論研究と実証研究の両方があって科学的営みが成り立つ事を考えれば、現在の政治学の異常性は明らかだろう。このように、現在の政治学のトレンドには危機感を覚えざるを得ない。だがそれに留まらず、政治学の理論研究におけるトレンドにも憂慮すべき点があると思う。ここからが今回の本題である。
私はApplied Theorist(応用理論家)を志望しているので、Applied Theoryとはいったい何かと考える事が多い。恐らく一般的な理解としては「Pure Theoryを何らかの文脈に応用することで、その文脈において現実的に重要な発見を行うこと」といった感じではないかと思うのだが、最近の研究を読んでいて頻繁に思うのが「理論的発見があまりになさすぎるのではないか」という事である。
私の理解では、Pure Theoryにおける貢献というのは文字通り純粋に理論的なものであり、その貢献がある程度大きな(一般性の高い)ものでなければ理論的貢献とは認められないのに対して、Applied Theoryにおける理論的貢献は小さな(一般性の低い)ものでもよく、その分その小さな貢献が、応用している文脈において現実的に重要な意味を持っていなければならないのだ思う。言い換えれば、Pure Theoryは理論的貢献が全てであるのに対して、Applied Theoryは「理論的貢献+現実的重要性」の合算で評価がなされるのではないかという事である*1。ここで重要なのは、とはいえApplied Theoryも理論である以上、さすがに理論的貢献が皆無ではまずいであろうという点である。単に既存のPure Theoryに新たなラベルを貼って同じロジックを焼き直しするだけでは、「応用」であっても「応用理論」とは言えない。それなら新たにモデルを組む必要はないので、「Pure Theoryからこういう仮説が導かれるのでそれを検証します」と言葉で説明して実証研究に進めば事足りてしまうだろう。
最近授業で80年代90年代に書かれた政治学の理論研究を読む機会が多いのだが、経済学の理論研究のようにしっかりと理論的貢献を行っている研究に出会えることが多い。それに対して最近の政治学の理論研究を読むと、トップジャーナルの論文であれ分野の有名人が書いた論文であれ、「一見大きな貢献をしているように売り込まれているものの、よく読んでみると既存の理論のロジックを焼き直ししているにすぎず、一生懸命読んだのに大した学びがなくがっかりする」という事が多い。私には、この現象と「そもそもApplied Theoryとは何かという事に対する共通理解の欠如」が関係しているように思えてならない。
Applied Theoryもまた理論研究である以上、既存のPure Theoryの含意として直接的に導くことのできない何らかのロジックを発見する必要があり、その営みは単にPure Theoryを文脈に「応用」する事とは区別されるべきである。政治学の現在のトレンドは「研究の貢献を言葉でわかりやすく説明する事」を重視しており、それ自体は全く悪い事ではない。むしろ言葉でわかりやすく説明できて初めて自らのモデルを完璧に理解できたと言えるので、そのトレンドの意図には共感できる所がある。だがこうしたインフォーマルな論文のスタイルが、理論的貢献の欠如をごまかし、理論的発見とは言えない「応用研究の結果」を(往々にして誇大に)売り込む事に繋がっているとすれば、政治学の理論的発展にとって大きな妨げであると言わざるを得ない。
もちろん私が今まで読んだ研究は昔の研究も近年の研究もそれらのごく一部にすぎず、今後勉強が進むにつれて認識が変わる可能性は大いにあると思う。だが博士課程1年目の現段階で感じているのは、現在が「政治学理論の氷河期」であるという(当たってほしくない)予感である。逆に言えばそうしたトレンドに左右されることなく正統派の応用理論研究ができれば、分野における自らの研究の重要性は(たとえ同時代の多くの研究者に今は理解されなかろうと)確かなものになるだろう。その目的を遂行するのに最も適した大学で勉強している以上、自分にはそれを目指す義務があると思う。
*1:言い換えれば、理論的新しさを追究するPure Theoryと現実の理解を試みる実証研究の間にあって、Applied Theoryは理論的新しさと現実性の両立を目指す営みと言えるかもしれない。