Rochesterで数理政治学を学ぶ

アメリカ政治学博士課程留学サンプル

2023年春学期振り返り

今期もApplied Theory、Pure Theory、サブスタンス、計量とバランスよく4科目を履修した。

Voting and Elections

選挙のモデルを体系的に学習するApplied Theory科目。一般に、決定版と言えるような教科書があるほど成熟した分野は教科書を通じて体系的に学習するのが効率的であり、したがって輪読というのは「まだ教科書がない発展分野を、なるべく体系的に把握しようとする試み」だと思う。しかし実際の輪読の授業は往々にして体系性への意識が低く、「あるテーマに関する論文を何となく色々読んだものの、結局全体を通じて何を学んだか分からない」という事になりがちである。だがこの授業は各トピック間の関係性も、各トピック内での論文の関係性も意識された、体系性への意識が強い輪読だった。私も将来輪読の授業を担当する時は、この授業のように体系的な授業を目指したいと思う。

授業のもう一つの特徴は、「メカニズムの直観的な説明」を重視していた事である。これに関して印象的だったのは、数学が得意な学生ほどプレゼンで式展開を提示して「これが直観的な説明」と言うのだが、それが何を表現しているかを言葉だけで説明しろと言われると、言葉に詰まっていたという事である。数理政治学である以上数学的に厳密である事は当然重要なのだが、理論は直観的に説明できて初めて本当に理解したと言える。この点は以前から意識していた点だが、この授業を通じて、論文を読み書きする時やプレゼンをする時により強く意識するようになった。同時に、自分は周囲の学生ほど数学が得意でないぶん、得意分野である国語力が活かせる直観的な説明という要素は、自分が勝負できる部分だと感じた。

授業の具体的内容について私が感じたのは、選挙の理論研究が持つジレンマである。選挙には「有権者の選好を集約する」という側面と「政治家のアカウンタビリティを維持する」という側面があり、後者については単一のRepresentative Voterを仮定して政治家との関係を考えるという単純化を行う事が多いのに対して、前者については選好の集約を考えている以上、多数の有権者をそのままモデルに登場させる事になる。そこで起きる問題は、「一人一人の有権者が結果を左右する可能性は限りなく低いが(いわゆる投票のパラドックス)、そうするとどのように投票しようが結果に影響を与えないのでどのような投票も最適反応になってしまい、結果として非常に多くの面白くない均衡が出てきてしまう」という問題である。そのため有権者の戦略性を分析する多くの研究は、各有権者が結果を左右する(pivotalである)状況に着目する事で、その下で有権者がどのような投票をすべきかという面白い問題を分析する。だが現実にはそのような事はほとんど起こらないので、そのアプローチは理論的面白さと引き換えに、現実性を犠牲にせざるを得ない。この「理論的面白さと現実性のジレンマ」というのは他のトピックでも生じうる問題だが、非常に多くのプレイヤーが参加する選挙は、この問題が最も顕著に表れるトピックだと思う。このジレンマを乗り越えるために様々な研究は、政党などのcoordination device 協調装置を使って(結果を左右する程度に大きな)集団として動くモデルを考えるか、合理性を一定程度修正したBehavioralなモデルを考えるか、もしくはいっそ合理性を放棄してsincere voting(一番好きな候補者に正直に投票)を仮定するといった工夫をするわけだが、結局の所これらは「個人合理性と選挙との相性の悪さ」を示していると思う。これらの工夫自体はいずれも現実的なものだと思うので、各有権者が合理的に行動するというモデルを追究するのは諦め、いずれかの仮定の下で候補者の合理的行動を分析するというのが、選挙研究において理論的面白さと現実性とを両立するための方向性なのかもしれない。

Advanced Formal Methods in Political Economy 

ゲーム理論シークエンス最後の授業であるPure Theory科目。例年はSocial Choice, Bargaining, and ElectionsというApplied Theory科目なのだが、今年は類似した科目が他に開講されているためPure Theoryに変更され、名前も新しくなった。内容は、Real Analysisを使って様々な形式のゲームの均衡存在を証明するというものである。有名なナッシュ定理は「有限戦略・同時手番のゲームの均衡存在」を保証しているが、戦略が無限(連続区間など)である場合や逐次手番の場合に均衡がある保証はない。実際、シンプルなのに均衡がないゲームというのも存在する。したがって、どのようなモデルであれば均衡が存在するかを認識するのは応用理論家にとっても重要な事である。均衡の存在を証明する際に使われるのが不動点定理(ある戦略の組に対する最適反応が、その戦略の組自体になっているという意味で不動)であり、不動点定理を適用する際に必要な条件として、continuity 連続性, compactness コンパクト性, convexity 凸性といったReal Analysisの概念が登場する*1。これが数理政治学者がReal Analysisを勉強する理由であるが、この授業は一言で言えば、実際にそれらを使って見せる事でReal Analysisの有用性を示してくれるデモンストレーションだった。どれくらいそれらの概念を使うかというと、約130ページの講義ノートを単語検索するとcontinuousが286回、 compactが261回、convex が104回登場するほどで、平均して1ページに1~2回は使われている計算である。これらの概念がいかに重要であるかを嫌というほど見せつける事で、来期に経済数学の授業を通じて本格的に学習する前に、モチベーションを高めてくれる授業だった。

このように、数学をどうゲーム理論に応用するかという面では素晴らしい授業だった一方、数学自体の説明に関しては、先生が数学の専門ではないゆえに直観的な説明が十分でなく、説明が形式的で無味乾燥に思えてしまう事も少なくなかった*2。来期に受ける経済数学の授業では、直観的な理解が得られる事を願いたい。その意味では、この授業の弱点がかえって来期の経済数学の授業へのモチベーションを高めてくれたという肯定的な見方もできる。

American Political Institutions

アメリ政治学のコア科目の1つで、アメリカの各政治制度について毎週レビュー論文+代表的な論文を数本読むという内容だった。授業の特徴としては、先学期のBureaucratic Politicsとは反対にプレゼンが全くなく、その分すべての論文について議論のための論点をまとめた1ページのメモを毎週提出したという点である。先学期がプレゼン準備を通じて毎週1本の論文を深く読むというスタイルであったのに対して、今学期は全ての論文に均等に時間を割くという対照的なスタイルである。プレゼン準備というのは論文を最も深く読み込む機会になるので先学期のフォーマットも個人的には好きだったが、サブスタンスを学ぶという授業目的からすると、一つ一つの論文を方法論的に深く検討するよりもサブスタンスに関する議論に集中して出来るだけ多くの論文に触れる方が良いと思うので、今学期の方式は大学院でのサブスタンスの授業として最適なフォーマットの1つだと感じた。将来自分が同様の授業を担当する事になった場合は、この授業が参照点になると思う。

個人的なもう1つの特徴は、「自分以外の先生・学生の全員がアメリカ人・アメリ政治学専攻」という点だった。だが意外にも、この点に気が付いたのは学期が始まってしばらくしてからだった。それくらい自分が例外的存在である事を意識せず一参加者として普通に参加できていたという事だと思うので、この点は自信に繋がった。来期のアメリカの政治行動論の授業でも同じ状況が続くので、この1年を通じてアメリカ人とアメリカ政治について対等に議論できる人間を目指したいと思う。

この授業で書いたリサーチプロポーザルを通じて、博論の一章として取り組みたいと思っているテーマについて方向性を定める事もできたので、先学期のBureaucratic Politicsと同様、授業の内容自体とは別の点で得るものが多い授業だったと思う。

Causal Inference

スタンダードな因果推論の授業。この授業を通じて痛感したのは、「計量・数理のうち、自分が専門にしない方ほど修士課程までに基本的な事をしっかり勉強しておくべき」という事である。博士課程に入ると何事も研究に繋げる事を常に意識するようになるため、自分の研究に直接関係ない内容への興味が薄れる事は避けられない。幅広い事に興味を持てる修士課程までに博士1年レベルの基本的な手法を既に勉強していれば、博士課程では専門と異なる手法を受講せずに済むし、たとえ必修科目が免除されず受講する事になったとしても、復習なのでそこまで苦労する事なく自分の専門の強化に集中できる。逆に専門ではない手法への準備が不足していると、モチベーションが低下した状態で慣れない分野を勉強しなければならなくなるので非常に大変である。私の場合は理論家志望なので、修士課程までよりも計量に対するモチベーションが下がっている事を実感した*3。これを見越して修士課程の間に計量経済学を聴講してはいたのだが、今よりも計量へのモチベーションが高かった学部や修士課程のうちに、よりしっかりと計量の学習をしておけば良かったと思う。将来的に日本の大学の計量政治学・数理政治学のカリキュラムが充実していけば、個人が意識的に頑張らなくても自然と基本が身についているという経済学に近い状態になると思うが、今はまだ自助努力で補わねばならない部分も大きく、しかもその場合は自分の専門に労力を傾けがちなので、「自分の専門ではない手法ほど修士課程までに基本をしっかり勉強しておくべき」という点は強く意識すべきだろう。

 

今期を総じて見ると、一番記憶に残っているのはAdvanced Formal Methods in Political Economyで自らの数学力の低さを痛感し、数理政治学者として本当にやっていけるかと度々不安になったという事である。だがその分Voting and Electionsの授業で書いたリサーチペーパーは、聴き間違えでなければ「クラスで一番の出来」という評価を頂く事ができ、「たとえPure Theoryが得意でなくても自分はApplied Theoryでは競争力があるかもしれない」と言い聞かせる事でモチベーションを維持していた*4。Applied Theoryにおけるセンスというのは、数学力のような分かりやすい能力とは異なるので自信を持つことは難しいし、トップジャーナルに論文を何本かパブリッシュできて初めて自らの適性に確信を持つ事ができるのだと思う。この夏からはいよいよ2nd-Year Paperに着手し本格的に研究が始まるので、自らの存在意義に対する不安を払拭するためにもなるべく早く業績を挙げたい。

*1:不動点定理にそれらの概念が登場する理由は直観的には分かりづらいが、ゲームではなく個人の意思決定の場合なら比較的わかりやすい。個人の効用最大化を考える時には「実数値連続関数は非空なコンパクト集合上で最大値を持つ」事を示す極値定理が使われるが、これは直観的には「境界を含む限定された範囲で定義された連続な関数は、その範囲内のどこかで最大値を達成する」という事を意味しており、これは図を書いてみれば納得できると思う。補足すると、実は極値定理自体もゲームの均衡の存在を証明する際に使う事がある。シンプルなProposer-Receiverゲームを考えよう。ProposerはReceiverがアクセプトする範囲で自らにベストな提案をするが、これはProposerによる効用最大化問題と言い換えられるので、効用関数が連続で「Receiverがアクセプトする範囲」が非空かつコンパクトなら、このゲームはサブゲーム完全均衡を持つことになる。

*2:一口に数理モデルと言っても抽象度にはいくつかのレベルあり、数学→ゲーム理論→応用理論と抽象度が下がっていく。中心的な例を挙げると、数学者が他の数学的定理を応用して不動点定理を証明し、ゲーム理論家が不動点定理を応用して一般のゲームの均衡存在定理を証明し、応用理論家が均衡存在定理を応用して特定のゲームの均衡存在を証明する、という関係になっている。さらに言えば応用理論を実証するのが実証研究者であり、その知見を現実の政策に応用しているのが実務家である。このように、「数学」という最も抽象的な対象から「現実」という最も具体的な対象の間には、それらを結びつける形で抽象度の異なるいくつもの営みが存在し、人はそれぞれ自分に適した抽象度の営みを選ぶ事で役割分業が成されている。したがって、応用理論家がゲーム理論の授業を担当する事はあるが、ゲーム理論家に匹敵するクオリティーの授業をする事は難しいし、今回の授業のようにゲーム理論家が数学の授業をする場合も、数学者ほど深い説明ができないのは仕方のない事である。

*3:先学期も同様の事は感じていたが、授業があまりに酷いゆえにモチベーションが下がってしまったという可能性も否定できなかった。だが今期の授業は良い授業だったと思うので、これは自分の側にも問題があると認めざるを得ない。とはいえ先学期に下げられてしまったモチベーションが今期にも影響しているという可能性も考えられるし、これらを因果的に識別するのは難しそうである。

*4:大学院の緩い成績評価なので自分の達成度としてどこまで信用していいのか分からないが、Advanced Formal Methods in Political Economyも一応Aを取れて安堵した。