Rochesterで数理政治学を学ぶ

アメリカ政治学博士課程留学サンプル

数理政治学ランキング/数理政治学を勉強できる大学院

博士課程

分野における大学の強さはPlacementで測られる事が多く、Placementを反映した代理指標として、ランキングが参照される事が多い。だが数理政治学にはランキングが存在しないため、自らPlacementを調べてランキングを作成する事にした。選出基準は「直近10年に、総合Top20の政治学部にテニュアトラック教員を輩出した数」とした*1。エラーによる若干の増減はあると思われるが、数理政治学におけるおおよその強さを測る上では有用だと思うので、大学選びの参考になれば幸いである。

 

数理政治学ランキング2023 Top10

順位 輩出大学 輩出数 名前 現在の所属
1 Rochester 6 Gleason Judd Princeton
      Xiaoyan (Christy) Qiu Washington St. Louis
      Zuheir Desai   Ohio State
      Peter Bils Vanderbilt
      Brenton Kenkel Vanderbilt
      Bradley C. Smith Vanderbilt
         
2 NYU 4 Andrew Little Berkeley
      Zhaotian Luo Chicago
      Scott A. Tyson Rochester
      Martin Castillo Quintana Chicago (Harris)
         
3 Washington St. Louis  2 Ian Turner Yale
      Keith E. Schnakenberg Washington St. Louis
         
  Chicago (Political Economy) 2 Congyi Zhou NYU
      Dan Alexander Rochester
         
  Princeton 2 Peter Buisseret Harvard
      Deborah Beim  Michigan
         
6 Michigan 1 Jessica Sun Emory
         
  Berkeley 1 Jack Paine Emory
         
  Columbia  1 Giovanna Maria Invernizzi  Duke 
         
  LSE 1 Federica Izzo UC San Diego
         
  Stanford (Political Economy) 1 Peter Schram Vanderbilt

この表から、今はランキングには入っていないVanderbiltやEmoryが多く若手を採用しており、数理政治学に力を入れ始めているという事も分かる。これらの大学も合わせて検討すべきだろう。

もう一つ分かるのは、この表に登場するのは全部で21人であり、10年分の記録である事をふまえると、1年あたり平均約2人がトップスクールに就職しているという事である。狭き門ではあるが、専攻している学生の数も少ないので、他のサブフィールドと比べて「トップスクールへの」就職が特別難しいかは分からない。ただ数理政治学は他のサブフィールドと違ってトップスクールにポストが集中している点、実証研究者に比べて企業就職という選択肢も限定される事をふまえると、就職全般においてはリスクが高い分野である事は間違いない。計量も合わせて勉強したり、サブスタンスの専門も作ったりする事で、リスクを低減する必要はあると思う*2

ちなみにPolitical Economy 政治経済学には、実体的な意味と方法論的な意味がある。実体的にはInternational Political Economy 国際政治経済学とComparative Political Economy 比較政治経済学を意味しており、方法論的な意味ではFormal (Political) Theory 数理政治学 及びそれに基づいた実証の事を指している。上記の表におけるPolitical Economyプログラムとは後者の意味で用いられている。

 

修士課程

博士課程への進学実績は分からない場合も多いので、修士課程はコースワークが充実している大学に行くのが良いと思う。ここでは基本的に政治学修士課程を紹介するが、同じ大学の経済学修士課程に入り数理政治学の講義は政治学部で履修するという選択肢もありうる。

数理政治学が強いのは圧倒的にアメリカだが、アメリカの修士課程は学費が法外で奨学金を獲得しても払いきれない場合が多い。数理政治学のコースワークの充実に加えて金銭的な現実性も加味すると、LSE(Political Science and Political Economy), Chicago, NYU(Pre-Ph.D. Track)の3校がお勧めである。LSEは学費が比較的安く、奨学金を獲得できれば現実的な水準である。私のいたChicago(MAPSS)は元々の学費は高いが大学からの学費減免が充実していて、人によっては全額免除される人もいる。Chicagoにはもう一つMACRMというプログラムがあって、こちらでは公共政策博士レベルの計量・数理(経済学博士と政治学博士の間くらいのレベル)を1年間勉強する。既に計量・数理のバックグラウンドには自信がありそれをさらに強化したいという人にお勧めのプログラムで、こちらも学費が減免される場合がある。NYUが最近作ったPre-Ph.D. Trackも学費が減額されうるようである。

この中ではChicago(MACRM)のレベルが一番高く、MACRMで好成績を取れる見込みがあるほど強い計量・数理のバックグラウンドがあるなら(例えば日本で既に経済修士のコアを受けているなら)、MACRMがベストだと思う。そこまで強くはないがある程度計量・数理のバックグラウンドがある場合は、LSE(Political Science and Political Economy)とNYU(Pre-Ph.D. Track)がお勧めである。計量・数理のバックグラウンドがなくても合格できるChicago(MAPSS)は、私のように学部生の時に出遅れた人がそれを取り返すにはうってつけのプログラムである。大学院レベルならどの学部の授業をとってもよいという柔軟なプログラムであり、政治学部とPolitical Economyプログラムから取りたい授業をうまく組み合わせる事で充実したカリキュラムを構成する事も可能である。だが1つ難点なのは社会科学の諸アプローチを概観するという必修科目がある事で、これはまだ自分の取りたいアプローチが決まっていない人には良い授業だと思うが、大学院というのは学部生の間に様々なアプローチを検討し自分の方向性を決めた上で来る場所だと思うので、個人的にはあまり有意義な授業ではないと感じた。この必修科目が秋学期にあるためにシークエンスを1つ諦めざるを得ず、自分の場合は数理政治学ミクロ経済学を優先した事で計量経済学を諦めた。この点を考えると、余計な科目を取らずに済むLSEやNYUの方がカリキュラム面では良いかもしれない。ただコースワークの充実というのはその年の開講科目に依存するので、入学前に各大学の履修計画を行い比較検討した上で、ベストな進学先を選んでいただきたい。

せっかく苦労して修士課程留学をするなら数理政治学に強い大学に行くのをお勧めするが、コスパの良い交換留学も有力な選択肢だと思う。上記の大学でなくともアメリカの総合Top20であれば基本的に数理政治学の授業が開講されているので、自分の大学の交換留学先にそのような大学があるなら積極的に活用したい。交換留学は学部生しか受け入れていない大学が多いため、留年して学部生として交換留学するという選択肢も検討に値する。

留学と合わせて検討すべきなのは、方法論のカリキュラムが充実している早稲田である。早稲田からは、交換留学や修士課程留学を経ずに直接アメリカの総合Top20に博士課程留学をする事が可能になりつつある。また、早稲田で修士のコアコースを受講してから交換留学・修士課程留学をしてよりレベルの高いコースワークをこなす事で(例えばMACRM)、総合Top10も狙えるかもしれない。

*1:数理政治学者の定義として、実証研究も合わせてやっている場合にどうするべきかという問題があり、理想的には「理論研究をメインでやっている人」をカウントしたいが、これは恣意的にならざるを得ないため、「2本以上フォーマルモデルを使っていない研究を見つけた場合対象から外す」という基準を取った。これにより「入れるべきでない人を入れてしまう」というエラーは減らす事ができたと思うが、全ての研究に目を通したわけではないため完全に無くせたとも言えない。また、全ての政治学部のホームページがサブフィールドごとに教員一覧を表示できるわけではないので、見落としによって「入れるべき人が入っていない」という逆のエラーもあると思われる。

*2:とはいえ既存のサブフィールド区分を前提にサブスタンスの専門を作るというのは、IRが専門の人にとっては何の問題もないし、権威主義が専門の人もComparative Politicsを選びやすいが、民主主義が専門の人がAmericanかComparativeかを選ぶというのは、以前の投稿でも述べたように酷な選択だと思う。自分の研究関心が比較的どちらにフィットしやすいか、どちらの分野の方がティーチングにあたって満遍なく関心を持てそうか、といった点をふまえ決める他ないだろう。

Wallis Institute of Political Economy Annual Conference 2023

今年もその季節がやってきた。2度目のWallis Conferenceである。(スケジュールや報告内容にご関心がある方はこちらをご覧いただきたい。)今年は課題で立て込んでいる事もあって部分参加する事にしたのだが、これはたとえ忙しくないとしても一般に良い戦略なのではないかと思うに至った。というのも、昨年のWallis Conferenceと春のComparative Politics and Formal Theory Conferenceに全会参加してみた感想として、「あまり興味のないプレゼンはどうしても集中できず有意義な時間を過ごせないし、にもかかわらず集中力を一定程度消費してしまうという二石零鳥」に気が付いたからである。特にFormal Theoryは少しでも集中力を切らすと話についていけなくなるため極度の集中力を要するので、そもそも一日に何本も聴いていられる性質のものでもない(一日中数学の授業を受ける事を想像していただきたい)。したがって興味のあるプレゼンに貴重な集中力を集中させるというのは合理的な戦略だと思う。私は、興味の強さに応じてプレゼンを3段階に分ける事にした。

①強い興味が湧くため、論文を通読して参加するプレゼン

②少し興味が湧くため、論文をスキミングして参加するプレゼン

③興味が湧かないため、参加しないプレゼン

これならたとえ忙しくても、参加しないプレゼンの時間を使って参加するプレゼンの論文を読む事もできるので、効率的に学会を楽しむ事ができる。今回のWallis Conferenceは2日で計7本のプレゼンがあったが、①が1本、②が1本、③が5本という内訳になった。何となく全体に参加していたこれまでの学会に比べると、密度の濃い時間を過ごす事が出来たように思う。ちなみに前回の学会で積極的に質問する事を志したのだが、今回は残念ながら一度も質問できなかった。言い訳としては、①に該当した論文については質問を用意していったのだが、自分が提案しようとしていた内容(具体的には効用関数の仮定について)がプレゼンでは既に反映されていたため、質問する内容がなくなってしまったのである。著者が自力で辿り着く程度の質問なら大した内容でもないので、質問してもしなくても変わらなかったのかもしれないが、Discussantも同じ点を指摘しようとして未遂に終わっていたため、重要な指摘ではあったのかもしれない。これからは参加するプレゼンを絞る分、参加するプレゼンについてはなるべく良い質問ができるよう努めたいと思う。

せっかくなので、理論研究だけでなく実証研究も含めて論文やプレゼンとこれからどう接していくかまとめておきたい。

 

論文

プレゼン

関心のある理論研究

通読 or スキミング

通読 or スキミング→参加

関心のある実証研究

スキミング

スキミング→参加しない

関心のない理論研究

読まない

読まずに参加 or 参加しない

関心のない実証研究

読まない

参加しない

関心のある理論研究・関心のない実証研究へのスタンスはシンプルな一方、関心のある実証研究・関心のない理論研究へのスタンスはねじれが発生している。というのも、より興味があるのは関心のある実証研究であり、それは論文へのスタンスに反映されているのだが、実証研究の場合論文をスキミング(所要時間10-30分)して要点を理解できれば満足してしまうので、細かい話を聴きにプレゼン(所要時間1時間半)に参加する意欲がなくなってしまうからである。他方、理論研究のプレゼンはロチェスターを卒業すれば中々聴く事ができなくなる可能性があるため、(とりわけ著名な先生の講演は)あまり関心がなくともなるべく参加しておこうという意識が働くためである。

 

上記は聴き手としての学会へのアプローチだが、学年が上がり学会の話し手に近づいてきている事もあり、話し手としての学会の意義についても考えてみたい。まずこれは、1時間~1時間半の長い持ち時間があるローカルな学会やワークショップと、15~20分程度の短い持ち時間しかない大きな学会とで大きく異なると思う。前者については「実質的なフィードバックを得る場所」である一方、後者は「ネットワーキングの場所」とりわけ就活を控えた大学院生にとっては「全大学に向けた共通一次面接」という性格が強いと思う*1

学外で前者の長いプレゼンができるのは基本的にプロの研究者だけなので、大学院生の間は学内のワークショップ、及び学外での短いプレゼンが中心になる。ただ両方とも、そこまでフィードバックを期待はできないかもしれない。学外のプレゼンについては上で述べた通りだが、学内についても、関心の近い先生には指導教官としてフィードバックをもらっているはずなので、それ以外の先生からワークショップでそれと同等のフィードバックをもらう事は難しいだろう。したがって大学院生の間は、指導教官が実質的なフィードバックの主な供給源だという事になる(逆に言えば、プロの研究者になると指導教官がいなくなる代わりに、学外での長いプレゼンの機会を得る事でフィードバックを確保するという見方もできる)。

数少ない例外は、学外の報告でDiscussantからのフィードバックがもらえる場合である。これは非常に貴重である一方、それだけのために遠方で開催される学会にはるばる参加する価値があるかというと、難しい所である。聴き手としても参加したいプレゼンは今回のように一部に過ぎないと思われるので、純粋に研究面だけで見た場合学会参加の見返りが十分大きなものであるかは、(仮に渡航資金が全額支給されたとしても)自明とは言えない*2。やはり大きな学会は、就活だったり、共著者になってくれそうな関心の近い研究者と知り合ったりというネットワーキングが主目的の場であって、「もしも良いフィードバックがもらえたらラッキー」というスタンスが良いように思う。そう考えた時、今までのように自分の大学やオンラインで行われる学会・ワークショップには興味に応じて積極的に参加しつつも、そこまで焦って大きな学会に参加を始めずともよいのではないかと思う。それよりも、授業を通じてしっかりと勉強しつつ、指導教官たちから確実にフィードバックを得られるよう関係性を構築していく事の方が、今は大事なのかもしれない。

*1:これはもしかすると、Formal Theoryという短時間のプレゼンでは内容を理解してもらう事が困難な研究分野の性質ゆえかもしれない。実証研究の場合は、短時間のプレゼンでも実質的なフィードバックを得られる可能性はあると思う。

*2:学内のワークショップやオンラインのAPSA Formal Theory Seminarはノーコストで参加できる代わりにDiscussantがいないのでフィードバックを得られない可能性もあるというノーコストローリターンなプレゼン、APSAやMPSAといった大きな学会は参加に時間と体力(場合によってはお金)をかける必要があるが、その分Discussantからのフィードバックは確保されているというハイコストハイリターンなプレゼンであると言える。

始業式代わりのポスターセッション

大学院は学部に比べて学生が少なく、ロチェスター大学政治学部のように小さなプログラムともなれば、教員も大学院生も各30人程度という小さなコミュニティになる(クラスで言えば2クラスくらい)。これだけ小さなコミュニティなのに、一切見た事も話した事もない相手がいるというのはもったいない話である。したがってコミュニティとしての一体感を出すために、年度初めに始業式代わりのイベントを行う大学院は少なくないのではないだろうか。(うちの大学院ではこんなイベントがあるよという事があれば、ぜひコメント欄で教えて頂きたい。)うちの学部の場合は毎年BBQが恒例だったのだが、今年は真面目な学部長によって「院生によるポスターセッション兼立食パーティー」という真面目なイベントに置き換えられる事となった。BBQ愛好家からブーイングを受けたのは間違いないが、参加率としては昨年のBBQも今年のポスターセッションも教員学生ともに半々と言ったところで、コミュニティの結束を図るという観点からは、どちらもそこそこの機能を果たせそうである。

そこで他の観点から、「レクリエーションに振り切る」のと「レクリエーションと仕事の間のバランスを取る」のとどちらが良いかという話になるが、後者の方がメリットが大きいのではないかというのが、今回感じた事である。昨年BBQに参加した感想として、どんなにイベントがレクリエーションに振り切ろうと、先生や同僚と盛り上がるのは結局研究の話であり、それなら「パーティーで仕事の話をするのはご法度と言われる事もあるし…」と気を遣わずに済むよう、初めから研究の話がしやすい空気の方がありがたい。大学内のちょっとしたスペースで行われる立食パーティーは、気軽な雰囲気で真面目な話ができるちょうどよいバランスを突いていると感じた。

さらにそこにポスターセッションを加えると、教員と学生が自然と混ざり合って交流する形となり、教員と学生が完全に別のブロックを形成してしまうのを避けられるというメリットが生まれる。もちろんポスターセッションであろうと教員のみ・学生のみの輪はできるが、学生と交流したい先生・先生と交流したい学生にとっては、先生が勇気を振り絞って学生の輪に入ったり(ほぼ不可能な)その逆を学生が演じたりという無茶を強いられる事無く、自然とポスターが集いの場になってくれるのは大きなメリットである。報告者はポスターという公共財を提供する見返りに、論文報告の経験を積む事ができる。秋学期の初めには毎年アメリ政治学会があるので、それに向けた肩慣らしにもなるというのが、伝統あるBBQを廃止する際に学部長が正当化に用いた大義名分である。

また学生の観点から良いと思ったのは、「指導熱心な先生を識別できる」という点である。BBQという完全なレクリエーションであれば、出席しなかったからといって「不真面目」という烙印を押される事はないが、ポスターセッションという事になれば、教員としてなるべく参加しなければならないという義務感が多少なりとも生じる。こうした「任意参加ではあるが出席が望ましい研究関連のイベント」に積極的に参加する先生は、学生の指導も積極的に行ってくれる可能性が比較的高いと思う。とはいえ出席しても他の先生と固まってばかりで一向に学生と話そうとしない先生もいるので、そういう人はかえってマイナスな印象を与える事になる。逆に最もプラスな印象を与えるのは、ポスターを回り報告者の学生と議論しているような先生である。こういう人はほぼ間違いなく指導熱心な先生だとみてよいだろう。

今回の会での個人的目標は、研究へのフィードバックをお願いしている先生3人と話して直接リマインドをする事であり、これは何とか達成する事ができた。会の最後にはその3人中2人と同時に話していたのだが、理論家同士の雑談(カリキュラムのあり方等)に参加できたのは自分も理論家の輪に半分仲間入りできた気がして嬉しかった。総じてみれば今回のイベントは、自分にとって「今年度も頑張ろう」という始業式としての基本的役割を果たしたと言えるだろう。高校までの始業式というのは、形式的に全校生徒が集められるだけで「今年度も学業に邁進しよう」などとは微塵も思わなかったのだが、このような楽しいイベントであれば、私のような不良学生でも毎年つい参加してしまうかもしれない。

テニスと卓球との間には

先ほどの投稿は真面目で暗い内容だったが、この投稿は一転して不真面目で明るい内容である。私は今日、政治学部の同期に誘われてPickleballというアメリカ発のスポーツを初めてプレーする事になった。Pickleballは、テニスコートより小さめのフィールドで卓球のように硬い板とボールを使ってプレーする、テニスと卓球の間のようなスポーツである。

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私の住んでいる寮には卓球台があるので、最近ようやくマイラケットを購入して遅咲きの卓球少年デビューを果たしたのだが、その矢先に同じくらい面白いスポーツに出会ってしまった。卓球をより広いフィールドでダイナミックにプレーしたいが、テニスができるほどの腕力は持ち合わせていないという自分のような人にとっては、Pickleballはうってつけのスポーツである。アメリカ人は、よその国ではほとんど使われないオンスとかファーレンハイトといった謎の単位を用いる独創的な民族だが、スポーツにおいてはそのクリエイティビティがポジティブな形で発揮されたようである。

初めは同期と3人で交代交代でプレーしていたのだが、そのうち地元の熟練プレイヤー(おじさん)たちに目をつけられ、一緒に試合をする事になった。初心者(というよりスポーツ自体初耳)の私は言うまでもなく足を引っ張ったが、初心者の割には筋が良かったようで、時々絶妙なショットを披露して「本当に初心者?冗談は大概にしてよ」とおじさんたち(GaryとMark)から度々笑顔で責め立てられた。この1年間ロチェスターで関わってきたのは大学関係者か日本人ばかりで地元の人と交流する事はなかったので、ようやくロチェスターに溶け込めた気になれたのは嬉しかった。私は元々小中高とサッカーをしていた生粋のサッカー少年なので、実は卓球よりよっぽど頻繁にサッカーをしているのだが、そういえば最近サッカーでも、地元の人と一緒にプレーしていて良いプレーをした後にハイタッチを求められる事があって、その時がプレー中一番嬉しい瞬間かもしれない。私はお酒に弱いのでバーに行く事もないし、仮に行ったとしても人見知りなので地元の人とおしゃべりで交流するという事はほとんど不可能なのだが、スポーツというのはこうも知らない人との間の精神的敷居を下げてくれるのかと、この年になってようやくスポーツの素晴らしさを感じ始めている。右腕の筋肉痛と引き換えに大事な事に気が付かせてくれたPickleballを、今後も同期と一緒にプレーしていきたい。また次コートに行った時、フェアプレーと紳士的な声掛けで我々学生を虜にしたGaryとMarkはいるだろうか。どうやらPickleballには、性別や年齢を超えて相手の人間的魅力を気づかせてくれる効果もあるようである。

楽しさのあまり写真を撮るのを忘れてしまったので、帰りに食べたインドカレーの写真でご勘弁願いたい。ちなみにこのカレー屋さんは、注文から1時間後にカレーを提供する事で限界までお腹を空かせた状態でカレーを食させ美味しさを倍増させるという、ハイリスクハイリターンな戦略を取っていた。実際カレーは美味しかったし、待っている間に同期とも夏学期の近況報告で仲を深められたので、最終的に誰も不機嫌にはなっていなかった。

2023年夏学期振り返り

大学の講義が無い夏の期間というのは「夏休み」という呼び方が一般的だと思うが、研究者にとっては(今はまだ受ける方だが将来的には教える方でも)講義の無い夏が最も研究を捗らせるべきシーズンであり、休みという呼称は休んでもよいという印象を自分自身に与えてしまい適切ではない(そして第一、普通の社会人は夏に3~4か月も休んでいない)ので、あえて「夏学期」と呼ぶ事にする。実際数えてみると、ロチェスター大学の夏学期は秋学期や春学期を超える16週間もあった。この期間を毎年休んでいたらどれだけの機会費用を計上してしまうかと考えるとゾッとする長さである。

では今年の夏はさぞ生産的に過ごせたという話をするのかと思いきや、初回の夏学期は残念ながらそうはいかなかったという反省の文である。だが同じ過ちを繰り返さないための教訓は得られたので、今後の備忘録として記録しておく次第である。

まず、夏学期に限らず一般に自分の(そして恐らく多くの人の)生産性が落ちるパターンには経験上次の6パターンがあると思っている。

①現在取り組んでいる対象に、強い興味が湧かない

②現在取り組んでいる対象が、今の自分のレベルに合っていない

③最適なスケジュールが組めていない

④ワーキングルーティーンの乱れ

⑤肉体的・精神的不調

⑥時期的な問題

分類としては、①②③が計画段階のミス(①②が「何に」取り組むのか、③が「どのように」取り組むのかについて)、④⑤が実行段階のミス、⑥が不可避的な現象である。

まず①「現在取り組んでいる対象に、強い興味が湧かない」については、講義については自分の興味をはっきり自覚した上で博士課程に来ているので履修ミスはほとんどなく、まして研究に関しては、自分が強い興味を持てる研究テーマを選択しているのであまり問題になる事はない。この夏自分が無意識のうちに苦しんでいたのは、②「現在取り組んでいる対象が、今の自分のレベルに合っていない」というパターンだった。(実は英語学習に関する以下の投稿で「『自分に合ったレベルの教材を使う事』がポイント」と述べているので、にもかかわらずこの事に気が付くのが遅れてしまったのは忸怩たる思いである。)

shunsukey.hatenadiary.com

すなわち、自分が博論で取り組みたいと考えているテーマはテクニカルに難しい問題であり、今はまだ十分な準備が整っていないにもかかわらず背伸びして取り組もうとしていた結果、全く進捗が生まれなかったのである。ではいつ準備が整うかというと、これから一年間経済数学とミクロ経済学の講義を通じて数学的・理論的バックグラウンドを強化する事で、来年の夏学期には自分のやりたい研究が自由にできるようになっているという計画である。これは博士課程入学当初からの計画ではあったのだが、これまで取り組もうとしていたテーマはこのステップを経る前でも取り組める比較的簡単なテーマだと勘違いしており、研究テーマのレベルを見誤った結果②の問題を招いてしまったのである。

遅ればせながらこの事に気が付いた私は、一から新しい研究をスタートさせるのを来年に延期し、1年目の講義で高評価を得る事ができたリサーチペーパーを発展させるという、より現実的な計画にシフトする事にした。そのペーパーは駆け出しの理論家の定石である「有名な研究の仮定を一部変更する事で結果に重大な変化がもたらされる事を示す」というパターンの研究であり、後続研究という性格上そこまで上を目指せるタイプの研究ではないのだが、今の自分にはそれが合っていると思う。(とはいえ同じ論文をベンチマークにした後続研究がJournal of Public Economicsという公共経済学のトップジャーナルに載っているので、頑張り次第では十分上も目指せるかもしれない。いずれにせよ、元の論文もその後続研究も、テクニカルにはそれほど難しい事はしていないが現実的に重要なテーマに取り組んでいるというタイプの研究なので、今の自分に合ったテーマ選びであるのは間違いないと思う。)

今の自分のレベルを適切に見極めなければ判断が難しい②は、中々に厄介な問題であると思う(目の前の課題が簡単すぎる場合は興味を失うので比較的気が付きやすいが、難しすぎる場合は興味は持続していて「もう少し頑張ればいけるかも」と思ってしまうので、自分にとって難しすぎるという事を自覚するのは特に時間がかかる)。その上さらに厄介なのは、自分が②のせいで進捗を生めていないという事を自覚できないと、「原因不明の生産性低下」という地球上で最も恐れるべき現象に直面するという事である。生産性低下の原因が分からないと、人はシンプルな解答を求めて「自分にやる気がないからだ」と錯覚する。そうするとやる気のない自分を責めて自己嫌悪に陥り、さらに生産性が低下するという最悪のスパイラルに陥ってしまう。これが「原因不明の生産性低下」という現象が持つ凶悪性である。

ここから未来の自分及び似たような経験があると感じた読者の方に伝えたい事は、「生産性低下の原因を安易に自分のやる気のなさに求めない」という事である。私の場合で言えば②「今の自分のレベルと課題のレベルの不一致」という事が真の原因だと突き止める事で、精神的に楽になったと共に生産性も大きく向上した。人によっては他にもありうる原因があると思うが、自分の生産性がなぜ低下しているのか、やる気のなさという安易な解答に飛びつくことなく、冷静に原因を分析して解決する事が重要だと思う(そもそも「やる気がない」というのは原因ではなく結果であり、上のような根本原因が奥に潜んでいるはずである)。その手助けとして、思い当たる原因を上のようにリスト化しておいて生産性の低下を感じる度に見返し、そこに原因がなければ新たに更新していくというのもいいかもしれない。自分の場合は、この投稿を今後も事ある毎に見返す(そして時には更新する)ことになると思う。

③「最適なスケジュールが組めていない」については、スケジュールを組む際に意識すべき点は主に「締切効果を利用する事」とそれ以外の点で「各タスクをこなすベストなタイミングを考える事」だと思う。締切効果とは締切の直前ほど生産性が上昇するというよく知られたテクニックであり、馴染みがない方は5000万回以上も再生されているこの有名なTED Talkをご覧頂きたい。

youtu.be

私が実践している例で言えば、私は「予習課題は授業のなるべく直前にやる」と決めている。これは授業という締切の直前ほど締切効果が発揮されるのに加えて、予習した内容が頭にハッキリ残った状態で授業を受けられるからである。復習課題については締切効果を考えると締切直前がいい一方、課題が出たらすぐに片づけてしまう方が授業内容が頭に残っているため効率的なので、どちらが良いかは難しい問題である。私の場合は、①とも関連するが「締切効果を利用せずともやる気が起きる興味のある課題はすぐに取り組み、あまり気の進まない課題は締切直前に取り組む」事にしている。このようにルール自体は明確なのだが、具体的にスケジュールを組む際にはタスク同士の都合が衝突するため、最適なスケジュールを組むというのは意外に難しい。新学期が始まる度に時間割に合わせてスケジュールを考え、非効率な点を少しずつ修正しながら学期を過ごしていくというのが学部生の頃からのルーティーンとなっている。もう何年も続けているルーティーンでも、未だに最適なスケジュールを組むのはTrial and Errorに時間がかかるので、計画段階のミスを減らすには不断の努力が必要である。

次に実行段階に話を移すと、④「ワーキングルーティーンの乱れ」については、自分の場合締切効果が働いていない限り家では生産的に過ごせないので、平日は授業がなくても大学に行く事が重要だと思う。毎日大学に行くというのは習慣化してしまえば何の事はないが、長い休みを挟んで一度失われてしまった習慣を取り戻すのは結構大変である。一方で「午前中に授業が無くても毎日同じ時間に起床する」という事は朝の英会話というペースメーカーを用いる事でおおよそできており、こちらは習慣化が成功している例である。大学院生/大学教授のスケジュールはフレキシブルなので気を抜くと簡単に不規則労働に陥ってしまうが、不規則労働は怠慢の基である。生産性を一定に保つには、「同じ時間に起床し同じ時間に大学に行く(帰宅時間はキリの良いタイミングに合わせて多少フレキシブルでもいいと思うが)」というワーキングルーティーンを維持する事が重要だと思う。

⑤「肉体的・精神的不調」を防ぐ事は、④のワーキングルーティーンを保つ事の裏返しである。起床時刻と合わせて就寝時刻も固定する事で安定した睡眠時間を確保する事は肉体的コンディションを保つために、平日のフリータイムや休日でしっかりとリフレッシュする事は精神的コンディションを保つために重要である。平日の日中真剣に頑張るためには、それ以外の時間で真剣に休まなければならない。

最後に⑥「時期的な問題」については、今の所どうしようもない現象であると考えている。五月に日本人の勤労意欲が下がる流行り病は有名だが、学生にとってより重要なのは学期の中での時期だと思う。1つの学期を4等分すると、第I期は新鮮な気持ちでモチベーションが高く、第II期と第IV期はそれぞれ中間試験、期末試験が視野に入る事でモチベーションが高まりを見せるが、第III期というのは中間試験を乗り越えた安堵感と期末試験までの猶予により中だるみしてしまいがちである。これについて根本的な治療法は現在の医療水準では存在しないようなので、罪悪感を抱えたまま無意味に非生産的な時間を過ごすよりも、いっそ中間試験後の一休みと開き直ってしっかりとリフレッシュし、なるべく早く休暇からの復帰を目指すという対症療法が現実的ではないかと感じている。

夏学期のこれまで3か月は、帰国して予定通り休んだ時期やRAを頑張った時期もあったので、2か月程度は有意義に過ごせたと思うが、残り1か月は上述のように生産性低下の原因究明が遅れた結果無駄にしてしまった。ようやくドラフトを先生たちに送って研究が前に動き出したので、残り3週間弱ではあるが生産的に過ごしていきたい。

新しいオフィスへの移住失敗

今回の投稿はいつもより短い。Instagramを見るように気軽な気持ちで眺めて頂ければ幸いである。今日は新しいオフィスが使える日なのだが、残念ながら私のオフィスはまだ使えないようである。代わりにしばらくこの部屋を使うようにと事務の方から言われた部屋に入ってみると、まさかのVisitor用のオフィスだった。

今まで使っていた部屋がこれであり、

今日から使えるはずだった部屋がこれなのに、

入ってみるとこれである。

大学院生用のオフィスと教員用のオフィスの最大の違いは、言うまでもなく机と椅子の数ではなく窓の有無である。窓があるのは精神衛生上ありがたいのでラッキーではあるのだが、隣の部屋にはとても偉い(上に面識もない)先生がいらっしゃるので非常に緊張する。出入りの時に遭遇して「なんで君はその部屋を使っているのかね」と問い詰められようものなら、その日のメンタルは窓の存在だけではカバーしきれないダメージを負う事になるだろうし、ましてうっかり物音を立てて迷惑をかけようものなら、私のような一学生は簡単に存在を消されてしまうので、極度の緊張下で研究を進めねばならない。とはいえ悪い事は何もしていないので引け目に思う必要もなく、それにVisitorに嫌がらせしようという意図に満ちた汚い机を、新しいオフィスを掃除しようとやる気満々で持参したクイックルワイパーやアルコールティッシュで綺麗に清掃したので、この部屋の使用料は支払ったとみてよいだろう。せいぜい学期が始まるまでの数週間、スリル満点の非日常を楽しもうと思う。

海外大学院留学説明会への登壇

米国大学院学生会さんという団体から、今週末に行われる海外大学院留学説明会への登壇のお話を頂いた。この説明会は日本人大学生の海外大学院への進学を大きく後押している10年強の歴史がある説明会で、自分も学部生の時から何度もオーディエンスとして参加させて頂いている。今回ようやくその恩返しができる機会を頂けたので、二つ返事で引き受けさせて頂いた。お話する内容は基本的にこのブログで書いた事の要点を説明するものなので、既にそちらに目を通して頂いた方には重複する内容が多いが、今回加筆した点も若干ある事と、記事全てに目を通すのは面倒なので要点がまとまったスライドの形で見返したいという需要ももしかしたらあるかもしれないので、スライドをここに載せておきたいと思う。講演はアーカイブとしても残るようなので、海外大学院にご関心がある方はもちろん、吉村の超早口トーク*1をお聴きになりたいという特殊な需要をお持ちの方もご覧頂ければ幸いである。

全体総合 - 海外大学院留学説明会 - 2023夏 - YouTube (私は27分〜50分にかけてお話しています)

 

*1:時間の都合上、意図的にそうするつもりである。とはいえアーカイブやこちらのブログを見て頂ければ内容を見返す事も可能だし、オンラインの講演というのは概して集中力が切れがちなので、少し早口くらいがちょうど良いのではという判断もある。

Divide-the-Dollar ModelとSpatial Model

今回の投稿はいつもより専門的なので、ほとんど誰も読まない事を覚悟して投稿したいと思う(誰も読まないのはいつもの事ではないかというツッコミは妥当だが野暮である)。だがこの話は数理政治学を勉強している人なら必ず一度は抱く疑問だと思うので、若干名の読者の皆さんにとっては感動ものかもしれない(実際私は感動した)。話自体はとても短いので、もったいぶらずに中身に入ろう。

経済学でBargainingと言う時には、所与のパイに対してプレイヤー1が自分の取り分を提案して、プレイヤー2がそれを受諾するか否かを選ぶという分配的なモデルを想定するのが普通である(パイの大きさは1とする事が多いのにちなんで、Divide-the-Dollar Modelと呼ばれる事が多い)。それに対して政治学でBargainingと言う時には、実数直線の政策空間(右派か左派かと考えればわかりやすい)上でプレイヤー1が政策を提案し、プレイヤー2がそれを受諾するか否かを選ぶという空間的なモデル(Spatial Model)を想定する事が多い。これらは別々に発展を遂げており、数理政治学の授業では両者を別々に勉強する事になる(実際、定番の教科書であるFormal Models of Domestic PoliticsではSpatial Modelが4章、Divide-the-Dollar Modelが6章で登場する)。そこで必ず浮かぶ疑問が、「Divide-the-Dollar ModelとSpatial Modelの関係って何なの?」という疑問である。この疑問は、一方で示された結果がもう一方でも成り立つかという点に関わるのでとても重要なはずであるが、意外にも数理政治学の授業でこの話が触れられる事はほとんどない(もし「私の授業ではこの点がきちんと説明された」という人がいたら、その先生は恐らく素晴らしい数理政治学者である。ぜひコメント欄で報告して頂きたい)。もし答を知らない場合は、次の段落を読む前にぜひ1分ほど考えてから読み進めてほしい。

結論を言うと、「Divide-the-Dollar ModelはSpatial Modelの特殊ケース」である。下図のように[0,1]という区間を政策空間として、プレイヤー1はを理想点とする単調増加の効用関数、プレイヤー2は0を理想点とする単調減少の効用関数を持っていると考えれば、Divide-the-Dollar ModelをSpatial Modelに変換する事ができるからである。したがってSpatial Modelで一般的に示された定理はDivide-the-Dollar Modelでも成り立つはずだし、逆にDivide-the-Dollar Modelで示された定理も、上記の条件が揃っていればSpatial Modelでも成り立つはずだと考える事ができる。

コロンブスの卵とはこの事かと思うが、私自身もこの事には今日まで気づいていなかったし、ロチェスター大学のゲーム理論の授業でこの点を質問した時も、先生から答は返ってこなかった。それくらい、多くの数理政治学者が意識せずにうやむやにしている点なのではないかと思う。ではなぜ私がこの点を理解できたかと言うと、今日指導教官とのミーティングの中でこの点が重要になったので質問してみたところ、あっさり答が返ってきたからである。数理政治学者は必ずしも数理に精通していない人が多い中、指導教官は最も数理に詳しい数理政治学者の一人であるので(その事は経済理論のジャーナルにおびただしい量の業績がある事に表れている)、私の長年の疑問にあっさりと答えたのはさすがと思わざるを得なかった。応用理論家志望としてサブスタンスをしっかり勉強するのは当然として、数理についてもせっかく厳しい環境で勉強できているので深い理解を目指していきたい。

Comparative Politics and Formal Theory Conference

Comparative Politics and Formal Theory Conferenceという、中々にニッチな学会に参加してきた。ニッチと言うのは、以前の投稿でも書いたように比較政治学と言えば実証研究中心の分野で、「比較政治学は実証研究である」と明示的に述べる大学もあるくらいだからである。そんな中、自分と同じ志を持つ研究者が少なくとも数十人いるという事実を確認できただけでも、心強い思いがした。また、今回も今まで紙面や画面上でしか見た事の無かった憧れの研究者の話を間近で聴くことができ、また少しアメリカの研究コミュニティに親近感を覚える事ができた(その人はホームページの写真からはクールな人柄を想像していたのだが、実際のキャラクターはとてもチャーミングで心温まった)。

今回は初めてポスターセッションにも参加でき、イメージとしてはポスターをスライドとして用いながら、人が訪れるたびに数分の短いプレゼンを繰り返し行い続けるというイベントである。ポスターセッションにおいて大変なのは、意外にも聴き手の方なのではないかと思う。話し手は毎回同じ話をするだけでよいが、聴き手は1対1で確実に何か質問しなければいけない状況で、即興で有意義なフィードバックを行うのはプロでも至難の業だろう。自分はまだそのような技量を持ち合わせておらず、ただ話を聴いてお礼を言う事しかできない自分に対して丁寧に研究を説明してくれたNYUの先輩方に感謝したい。ちなみに自分の指導教官は、瓶ビール片手にHarvardの学生を細かい指摘で詰めていた。

学会を通じた発見としては2つあり、まずは「一流研究者と言えどプレゼンスキルは千差万別」という事である。理系で頭のいい人にありがちな「文字をビッシリ詰めたスライドを、ポインター等も使うことなく単調に表示しながら、ひたすらぼそぼそと早口でしゃべり倒す」というスタイルが散見された。これはプレゼンではなくモノローグであり、聴衆にとっては退屈この上ない。もはやプレゼンより論文を直接読む方が効率が良いと感じてしまうほどである。これはネイティブほど要注意で、特に早口な人が多いアメリカ人はこのパターンに陥りやすい。結果として今回の学会で一番プレゼンが素晴らしかったのは中国人の教授で、発音は少し違和感があるが聞き取りづらいという程ではないし、むしろ情報量を必要最低限に抑えてゆっくりと進めているぶん論理展開もクリアで、予習なしでも問題なくついていく事が出来た。とりわけFormal Theoryは少しでも論理展開に分からない所があると後の理解に響いてしまうので、これくらい一歩一歩着実に聞き手を導くようなスタイルが最適だと思う。自分も今後プレゼンをする時は、スライドの枚数を抑え、一枚のスライドの中の情報量も抑え、「このプレゼンを通じてこういう学びを得た」という感覚を確実に多くの人に持ち帰ってもらえるようなプレゼンを目指したいと思う。プレゼンとは、聴き手のためになる話ができて初めて、有意義なフィードバックをもらえるという相互的な営みである。そうした基本原則を体現したプレゼンは、今回の学会では上記の中国人教授くらいしかできていなかった。自分の話したい事を詰め込んだ(そして往々にして時間内に終わらない)独りよがりなプレゼンをする一流研究者が意外にも多い事が分かり、ノンネイティブの自分だからこそ、この点は一つ勝負していけるポイントだと感じた。

次に、参加者は大きく「頻繁に質問する人、全会を通じて一回だけ質問する人、一度も質問しない人」という3タイプに分かれる事が分かった。経験上、プレゼンに興味を持って集中して聴く事ができていれば、一つのプレゼンに対して必ず一つは疑問が湧くものである。したがって興味のマッチする学会に参加できているのであれば(わざわざ遠方まで出向いて貴重な数日を投じているのだからこの判断は正確なものでなければいけないが)、必然的に頻繁に質問する事になる。なので2番目や3番目のタイプの人たちは、集中して話を聴けていないと推察される。理由としてはいくつか考えられるが、まずは上記のようにプレゼンの話し手に問題がある可能性が考えられる。話し手が聴き手を引き込むような話し方をできていないせいで、興味が薄れ集中力が切れてしまうのである。良いプレゼンの後には質問が相次ぐものなので、質問があまり出なかったら、このパターンが発動したと見てよいだろう。今回の学会でも多々見受けられた。

ただ、聴き手の側にも全く落ち度がないわけではない。興味のある論文は予習していったり、「絶対に何か質問するぞ」と前のめりに話を聴くといった少しの心がけで、プレゼンは何倍も楽しいものになる。今回の自分の経験では、「元々強い興味がなかったので予習していなかったが、プレゼンが上手だったので集中して聴けた結果疑問が湧き、質問しようとできた(が時間不足で順番が回ってこなかった。これは多くの質問を誘発した話し手側の成功の証左でもある)」というパターンと、「興味があり予習していたため、プレゼンは上手ではなかったが集中して聴けた結果、聴きながら疑問が湧き実際に質問できた」というパターンがあった。そのため、話し手か聴き手かいずれか一方でも努力すれば、プレゼンは楽しいものになるのではないだろうか。1番目のタイプの人たちは、そうした小さな努力を数十年間積み重ね続けている人たちなのだと思う。そういう人たちは実際研究面でも業績が素晴らしいし、研究者としてのロールモデルである。かくいう自分は質問が1回、質問未遂が1回と、結果として2番目のタイプに分類されてしまう存在である。このタイプの人たちは、一番興味の湧いた論文だけしっかりと予習して臨んで集中して聴き、後は内職したり何となく聴いたりしている可能性が高い。でも3番目のタイプの人たちとは違うのは、「せめて一度は発言しなければ参加している意味がない」という危機感を持っている事だと思う。自分は初の対面学会である前回から2番目のタイプとしてキャリアをスタートさせ、今回は1番目のタイプへの昇格を試みたが惜しくも2番目のタイプに残留してしまったので、次こそ1番目のタイプへの昇格入りを目指したいと思う。

後ろの席から質問するよりも、思い切って最前列に座る方が質問しやすい。

2023年春学期振り返り

今期もApplied Theory、Pure Theory、サブスタンス、計量とバランスよく4科目を履修した。

Voting and Elections

選挙のモデルを体系的に学習するApplied Theory科目。一般に、決定版と言えるような教科書があるほど成熟した分野は教科書を通じて体系的に学習するのが効率的であり、したがって輪読というのは「まだ教科書がない発展分野を、なるべく体系的に把握しようとする試み」だと思う。しかし実際の輪読の授業は往々にして体系性への意識が低く、「あるテーマに関する論文を何となく色々読んだものの、結局全体を通じて何を学んだか分からない」という事になりがちである。だがこの授業は各トピック間の関係性も、各トピック内での論文の関係性も意識された、体系性への意識が強い輪読だった。私も将来輪読の授業を担当する時は、この授業のように体系的な授業を目指したいと思う。

授業のもう一つの特徴は、「メカニズムの直観的な説明」を重視していた事である。これに関して印象的だったのは、数学が得意な学生ほどプレゼンで式展開を提示して「これが直観的な説明」と言うのだが、それが何を表現しているかを言葉だけで説明しろと言われると、言葉に詰まっていたという事である。数理政治学である以上数学的に厳密である事は当然重要なのだが、理論は直観的に説明できて初めて本当に理解したと言える。この点は以前から意識していた点だが、この授業を通じて、論文を読み書きする時やプレゼンをする時により強く意識するようになった。同時に、自分は周囲の学生ほど数学が得意でないぶん、得意分野である国語力が活かせる直観的な説明という要素は、自分が勝負できる部分だと感じた。

授業の具体的内容について私が感じたのは、選挙の理論研究が持つジレンマである。選挙には「有権者の選好を集約する」という側面と「政治家のアカウンタビリティを維持する」という側面があり、後者については単一のRepresentative Voterを仮定して政治家との関係を考えるという単純化を行う事が多いのに対して、前者については選好の集約を考えている以上、多数の有権者をそのままモデルに登場させる事になる。そこで起きる問題は、「一人一人の有権者が結果を左右する可能性は限りなく低いが(いわゆる投票のパラドックス)、そうするとどのように投票しようが結果に影響を与えないのでどのような投票も最適反応になってしまい、結果として非常に多くの面白くない均衡が出てきてしまう」という問題である。そのため有権者の戦略性を分析する多くの研究は、各有権者が結果を左右する(pivotalである)状況に着目する事で、その下で有権者がどのような投票をすべきかという面白い問題を分析する。だが現実にはそのような事はほとんど起こらないので、そのアプローチは理論的面白さと引き換えに、現実性を犠牲にせざるを得ない。この「理論的面白さと現実性のジレンマ」というのは他のトピックでも生じうる問題だが、非常に多くのプレイヤーが参加する選挙は、この問題が最も顕著に表れるトピックだと思う。このジレンマを乗り越えるために様々な研究は、政党などのcoordination device 協調装置を使って(結果を左右する程度に大きな)集団として動くモデルを考えるか、合理性を一定程度修正したBehavioralなモデルを考えるか、もしくはいっそ合理性を放棄してsincere voting(一番好きな候補者に正直に投票)を仮定するといった工夫をするわけだが、結局の所これらは「個人合理性と選挙との相性の悪さ」を示していると思う。これらの工夫自体はいずれも現実的なものだと思うので、各有権者が合理的に行動するというモデルを追究するのは諦め、いずれかの仮定の下で候補者の合理的行動を分析するというのが、選挙研究において理論的面白さと現実性とを両立するための方向性なのかもしれない。

Advanced Formal Methods in Political Economy 

ゲーム理論シークエンス最後の授業であるPure Theory科目。例年はSocial Choice, Bargaining, and ElectionsというApplied Theory科目なのだが、今年は類似した科目が他に開講されているためPure Theoryに変更され、名前も新しくなった。内容は、Real Analysisを使って様々な形式のゲームの均衡存在を証明するというものである。有名なナッシュ定理は「有限戦略・同時手番のゲームの均衡存在」を保証しているが、戦略が無限(連続区間など)である場合や逐次手番の場合に均衡がある保証はない。実際、シンプルなのに均衡がないゲームというのも存在する。したがって、どのようなモデルであれば均衡が存在するかを認識するのは応用理論家にとっても重要な事である。均衡の存在を証明する際に使われるのが不動点定理(ある戦略の組に対する最適反応が、その戦略の組自体になっているという意味で不動)であり、不動点定理を適用する際に必要な条件として、continuity 連続性, compactness コンパクト性, convexity 凸性といったReal Analysisの概念が登場する*1。これが数理政治学者がReal Analysisを勉強する理由であるが、この授業は一言で言えば、実際にそれらを使って見せる事でReal Analysisの有用性を示してくれるデモンストレーションだった。どれくらいそれらの概念を使うかというと、約130ページの講義ノートを単語検索するとcontinuousが286回、 compactが261回、convex が104回登場するほどで、平均して1ページに1~2回は使われている計算である。これらの概念がいかに重要であるかを嫌というほど見せつける事で、来期に経済数学の授業を通じて本格的に学習する前に、モチベーションを高めてくれる授業だった。

このように、数学をどうゲーム理論に応用するかという面では素晴らしい授業だった一方、数学自体の説明に関しては、先生が数学の専門ではないゆえに直観的な説明が十分でなく、説明が形式的で無味乾燥に思えてしまう事も少なくなかった*2。来期に受ける経済数学の授業では、直観的な理解が得られる事を願いたい。その意味では、この授業の弱点がかえって来期の経済数学の授業へのモチベーションを高めてくれたという肯定的な見方もできる。

American Political Institutions

アメリ政治学のコア科目の1つで、アメリカの各政治制度について毎週レビュー論文+代表的な論文を数本読むという内容だった。授業の特徴としては、先学期のBureaucratic Politicsとは反対にプレゼンが全くなく、その分すべての論文について議論のための論点をまとめた1ページのメモを毎週提出したという点である。先学期がプレゼン準備を通じて毎週1本の論文を深く読むというスタイルであったのに対して、今学期は全ての論文に均等に時間を割くという対照的なスタイルである。プレゼン準備というのは論文を最も深く読み込む機会になるので先学期のフォーマットも個人的には好きだったが、サブスタンスを学ぶという授業目的からすると、一つ一つの論文を方法論的に深く検討するよりもサブスタンスに関する議論に集中して出来るだけ多くの論文に触れる方が良いと思うので、今学期の方式は大学院でのサブスタンスの授業として最適なフォーマットの1つだと感じた。将来自分が同様の授業を担当する事になった場合は、この授業が参照点になると思う。

個人的なもう1つの特徴は、「自分以外の先生・学生の全員がアメリカ人・アメリ政治学専攻」という点だった。だが意外にも、この点に気が付いたのは学期が始まってしばらくしてからだった。それくらい自分が例外的存在である事を意識せず一参加者として普通に参加できていたという事だと思うので、この点は自信に繋がった。来期のアメリカの政治行動論の授業でも同じ状況が続くので、この1年を通じてアメリカ人とアメリカ政治について対等に議論できる人間を目指したいと思う。

この授業で書いたリサーチプロポーザルを通じて、博論の一章として取り組みたいと思っているテーマについて方向性を定める事もできたので、先学期のBureaucratic Politicsと同様、授業の内容自体とは別の点で得るものが多い授業だったと思う。

Causal Inference

スタンダードな因果推論の授業。この授業を通じて痛感したのは、「計量・数理のうち、自分が専門にしない方ほど修士課程までに基本的な事をしっかり勉強しておくべき」という事である。博士課程に入ると何事も研究に繋げる事を常に意識するようになるため、自分の研究に直接関係ない内容への興味が薄れる事は避けられない。幅広い事に興味を持てる修士課程までに博士1年レベルの基本的な手法を既に勉強していれば、博士課程では専門と異なる手法を受講せずに済むし、たとえ必修科目が免除されず受講する事になったとしても、復習なのでそこまで苦労する事なく自分の専門の強化に集中できる。逆に専門ではない手法への準備が不足していると、モチベーションが低下した状態で慣れない分野を勉強しなければならなくなるので非常に大変である。私の場合は理論家志望なので、修士課程までよりも計量に対するモチベーションが下がっている事を実感した*3。これを見越して修士課程の間に計量経済学を聴講してはいたのだが、今よりも計量へのモチベーションが高かった学部や修士課程のうちに、よりしっかりと計量の学習をしておけば良かったと思う。将来的に日本の大学の計量政治学・数理政治学のカリキュラムが充実していけば、個人が意識的に頑張らなくても自然と基本が身についているという経済学に近い状態になると思うが、今はまだ自助努力で補わねばならない部分も大きく、しかもその場合は自分の専門に労力を傾けがちなので、「自分の専門ではない手法ほど修士課程までに基本をしっかり勉強しておくべき」という点は強く意識すべきだろう。

 

今期を総じて見ると、一番記憶に残っているのはAdvanced Formal Methods in Political Economyで自らの数学力の低さを痛感し、数理政治学者として本当にやっていけるかと度々不安になったという事である。だがその分Voting and Electionsの授業で書いたリサーチペーパーは、聴き間違えでなければ「クラスで一番の出来」という評価を頂く事ができ、「たとえPure Theoryが得意でなくても自分はApplied Theoryでは競争力があるかもしれない」と言い聞かせる事でモチベーションを維持していた*4。Applied Theoryにおけるセンスというのは、数学力のような分かりやすい能力とは異なるので自信を持つことは難しいし、トップジャーナルに論文を何本かパブリッシュできて初めて自らの適性に確信を持つ事ができるのだと思う。この夏からはいよいよ2nd-Year Paperに着手し本格的に研究が始まるので、自らの存在意義に対する不安を払拭するためにもなるべく早く業績を挙げたい。

*1:不動点定理にそれらの概念が登場する理由は直観的には分かりづらいが、ゲームではなく個人の意思決定の場合なら比較的わかりやすい。個人の効用最大化を考える時には「実数値連続関数は非空なコンパクト集合上で最大値を持つ」事を示す極値定理が使われるが、これは直観的には「境界を含む限定された範囲で定義された連続な関数は、その範囲内のどこかで最大値を達成する」という事を意味しており、これは図を書いてみれば納得できると思う。補足すると、実は極値定理自体もゲームの均衡の存在を証明する際に使う事がある。シンプルなProposer-Receiverゲームを考えよう。ProposerはReceiverがアクセプトする範囲で自らにベストな提案をするが、これはProposerによる効用最大化問題と言い換えられるので、効用関数が連続で「Receiverがアクセプトする範囲」が非空かつコンパクトなら、このゲームはサブゲーム完全均衡を持つことになる。

*2:一口に数理モデルと言っても抽象度にはいくつかのレベルあり、数学→ゲーム理論→応用理論と抽象度が下がっていく。中心的な例を挙げると、数学者が他の数学的定理を応用して不動点定理を証明し、ゲーム理論家が不動点定理を応用して一般のゲームの均衡存在定理を証明し、応用理論家が均衡存在定理を応用して特定のゲームの均衡存在を証明する、という関係になっている。さらに言えば応用理論を実証するのが実証研究者であり、その知見を現実の政策に応用しているのが実務家である。このように、「数学」という最も抽象的な対象から「現実」という最も具体的な対象の間には、それらを結びつける形で抽象度の異なるいくつもの営みが存在し、人はそれぞれ自分に適した抽象度の営みを選ぶ事で役割分業が成されている。したがって、応用理論家がゲーム理論の授業を担当する事はあるが、ゲーム理論家に匹敵するクオリティーの授業をする事は難しいし、今回の授業のようにゲーム理論家が数学の授業をする場合も、数学者ほど深い説明ができないのは仕方のない事である。

*3:先学期も同様の事は感じていたが、授業があまりに酷いゆえにモチベーションが下がってしまったという可能性も否定できなかった。だが今期の授業は良い授業だったと思うので、これは自分の側にも問題があると認めざるを得ない。とはいえ先学期に下げられてしまったモチベーションが今期にも影響しているという可能性も考えられるし、これらを因果的に識別するのは難しそうである。

*4:大学院の緩い成績評価なので自分の達成度としてどこまで信用していいのか分からないが、Advanced Formal Methods in Political Economyも一応Aを取れて安堵した。