Rochesterで数理政治学を学ぶ

アメリカ政治学博士課程留学サンプル

新しいオフィスへの移住失敗

今回の投稿はいつもより短い。Instagramを見るように気軽な気持ちで眺めて頂ければ幸いである。今日は新しいオフィスが使える日なのだが、残念ながら私のオフィスはまだ使えないようである。代わりにしばらくこの部屋を使うようにと事務の方から言われた部屋に入ってみると、まさかのVisitor用のオフィスだった。

今まで使っていた部屋がこれであり、

今日から使えるはずだった部屋がこれなのに、

入ってみるとこれである。

大学院生用のオフィスと教員用のオフィスの最大の違いは、言うまでもなく机と椅子の数ではなく窓の有無である。窓があるのは精神衛生上ありがたいのでラッキーではあるのだが、隣の部屋にはとても偉い(上に面識もない)先生がいらっしゃるので非常に緊張する。出入りの時に遭遇して「なんで君はその部屋を使っているのかね」と問い詰められようものなら、その日のメンタルは窓の存在だけではカバーしきれないダメージを負う事になるだろうし、ましてうっかり物音を立てて迷惑をかけようものなら、私のような一学生は簡単に存在を消されてしまうので、極度の緊張下で研究を進めねばならない。とはいえ悪い事は何もしていないので引け目に思う必要もなく、それにVisitorに嫌がらせしようという意図に満ちた汚い机を、新しいオフィスを掃除しようとやる気満々で持参したクイックルワイパーやアルコールティッシュで綺麗に清掃したので、この部屋の使用料は支払ったとみてよいだろう。せいぜい学期が始まるまでの数週間、スリル満点の非日常を楽しもうと思う。

海外大学院留学説明会への登壇

米国大学院学生会さんという団体から、今週末に行われる海外大学院留学説明会への登壇のお話を頂いた。この説明会は日本人大学生の海外大学院への進学を大きく後押している10年強の歴史がある説明会で、自分も学部生の時から何度もオーディエンスとして参加させて頂いている。今回ようやくその恩返しができる機会を頂けたので、二つ返事で引き受けさせて頂いた。お話する内容は基本的にこのブログで書いた事の要点を説明するものなので、既にそちらに目を通して頂いた方には重複する内容が多いが、今回加筆した点も若干ある事と、記事全てに目を通すのは面倒なので要点がまとまったスライドの形で見返したいという需要ももしかしたらあるかもしれないので、スライドをここに載せておきたいと思う。講演はアーカイブとしても残るようなので、海外大学院にご関心がある方はもちろん、吉村の超早口トーク*1をお聴きになりたいという特殊な需要をお持ちの方もご覧頂ければ幸いである。

全体総合 - 海外大学院留学説明会 - 2023夏 - YouTube (私は27分〜50分にかけてお話しています)

 

*1:時間の都合上、意図的にそうするつもりである。とはいえアーカイブやこちらのブログを見て頂ければ内容を見返す事も可能だし、オンラインの講演というのは概して集中力が切れがちなので、少し早口くらいがちょうど良いのではという判断もある。

Divide-the-Dollar ModelとSpatial Model

今回の投稿はいつもより専門的なので、ほとんど誰も読まない事を覚悟して投稿したいと思う(誰も読まないのはいつもの事ではないかというツッコミは妥当だが野暮である)。だがこの話は数理政治学を勉強している人なら必ず一度は抱く疑問だと思うので、若干名の読者の皆さんにとっては感動ものかもしれない(実際私は感動した)。話自体はとても短いので、もったいぶらずに中身に入ろう。

経済学でBargainingと言う時には、所与のパイに対してプレイヤー1が自分の取り分を提案して、プレイヤー2がそれを受諾するか否かを選ぶという分配的なモデルを想定するのが普通である(パイの大きさは1とする事が多いのにちなんで、Divide-the-Dollar Modelと呼ばれる事が多い)。それに対して政治学でBargainingと言う時には、実数直線の政策空間(右派か左派かと考えればわかりやすい)上でプレイヤー1が政策を提案し、プレイヤー2がそれを受諾するか否かを選ぶという空間的なモデル(Spatial Model)を想定する事が多い。これらは別々に発展を遂げており、数理政治学の授業では両者を別々に勉強する事になる(実際、定番の教科書であるFormal Models of Domestic PoliticsではSpatial Modelが4章、Divide-the-Dollar Modelが6章で登場する)。そこで必ず浮かぶ疑問が、「Divide-the-Dollar ModelとSpatial Modelの関係って何なの?」という疑問である。この疑問は、一方で示された結果がもう一方でも成り立つかという点に関わるのでとても重要なはずであるが、意外にも数理政治学の授業でこの話が触れられる事はほとんどない(もし「私の授業ではこの点がきちんと説明された」という人がいたら、その先生は恐らく素晴らしい数理政治学者である。ぜひコメント欄で報告して頂きたい)。もし答を知らない場合は、次の段落を読む前にぜひ1分ほど考えてから読み進めてほしい。

結論を言うと、「Divide-the-Dollar ModelはSpatial Modelの特殊ケース」である。下図のように[0,1]という区間を政策空間として、プレイヤー1はを理想点とする単調増加の効用関数、プレイヤー2は0を理想点とする単調減少の効用関数を持っていると考えれば、Divide-the-Dollar ModelをSpatial Modelに変換する事ができるからである。したがってSpatial Modelで一般的に示された定理はDivide-the-Dollar Modelでも成り立つはずだし、逆にDivide-the-Dollar Modelで示された定理も、上記の条件が揃っていればSpatial Modelでも成り立つはずだと考える事ができる。

コロンブスの卵とはこの事かと思うが、私自身もこの事には今日まで気づいていなかったし、ロチェスター大学のゲーム理論の授業でこの点を質問した時も、先生から答は返ってこなかった。それくらい、多くの数理政治学者が意識せずにうやむやにしている点なのではないかと思う。ではなぜ私がこの点を理解できたかと言うと、今日指導教官とのミーティングの中でこの点が重要になったので質問してみたところ、あっさり答が返ってきたからである。数理政治学者は必ずしも数理に精通していない人が多い中、指導教官は最も数理に詳しい数理政治学者の一人であるので(その事は経済理論のジャーナルにおびただしい量の業績がある事に表れている)、私の長年の疑問にあっさりと答えたのはさすがと思わざるを得なかった。応用理論家志望としてサブスタンスをしっかり勉強するのは当然として、数理についてもせっかく厳しい環境で勉強できているので深い理解を目指していきたい。

Comparative Politics and Formal Theory Conference

Comparative Politics and Formal Theory Conferenceという、中々にニッチな学会に参加してきた。ニッチと言うのは、以前の投稿でも書いたように比較政治学と言えば実証研究中心の分野で、「比較政治学は実証研究である」と明示的に述べる大学もあるくらいだからである。そんな中、自分と同じ志を持つ研究者が少なくとも数十人いるという事実を確認できただけでも、心強い思いがした。また、今回も今まで紙面や画面上でしか見た事の無かった憧れの研究者の話を間近で聴くことができ、また少しアメリカの研究コミュニティに親近感を覚える事ができた(その人はホームページの写真からはクールな人柄を想像していたのだが、実際のキャラクターはとてもチャーミングで心温まった)。

今回は初めてポスターセッションにも参加でき、イメージとしてはポスターをスライドとして用いながら、人が訪れるたびに数分の短いプレゼンを繰り返し行い続けるというイベントである。ポスターセッションにおいて大変なのは、意外にも聴き手の方なのではないかと思う。話し手は毎回同じ話をするだけでよいが、聴き手は1対1で確実に何か質問しなければいけない状況で、即興で有意義なフィードバックを行うのはプロでも至難の業だろう。自分はまだそのような技量を持ち合わせておらず、ただ話を聴いてお礼を言う事しかできない自分に対して丁寧に研究を説明してくれたNYUの先輩方に感謝したい。ちなみに自分の指導教官は、瓶ビール片手にHarvardの学生を細かい指摘で詰めていた。

学会を通じた発見としては2つあり、まずは「一流研究者と言えどプレゼンスキルは千差万別」という事である。理系で頭のいい人にありがちな「文字をビッシリ詰めたスライドを、ポインター等も使うことなく単調に表示しながら、ひたすらぼそぼそと早口でしゃべり倒す」というスタイルが散見された。これはプレゼンではなくモノローグであり、聴衆にとっては退屈この上ない。もはやプレゼンより論文を直接読む方が効率が良いと感じてしまうほどである。これはネイティブほど要注意で、特に早口な人が多いアメリカ人はこのパターンに陥りやすい。結果として今回の学会で一番プレゼンが素晴らしかったのは中国人の教授で、発音は少し違和感があるが聞き取りづらいという程ではないし、むしろ情報量を必要最低限に抑えてゆっくりと進めているぶん論理展開もクリアで、予習なしでも問題なくついていく事が出来た。とりわけFormal Theoryは少しでも論理展開に分からない所があると後の理解に響いてしまうので、これくらい一歩一歩着実に聞き手を導くようなスタイルが最適だと思う。自分も今後プレゼンをする時は、スライドの枚数を抑え、一枚のスライドの中の情報量も抑え、「このプレゼンを通じてこういう学びを得た」という感覚を確実に多くの人に持ち帰ってもらえるようなプレゼンを目指したいと思う。プレゼンとは、聴き手のためになる話ができて初めて、有意義なフィードバックをもらえるという相互的な営みである。そうした基本原則を体現したプレゼンは、今回の学会では上記の中国人教授くらいしかできていなかった。自分の話したい事を詰め込んだ(そして往々にして時間内に終わらない)独りよがりなプレゼンをする一流研究者が意外にも多い事が分かり、ノンネイティブの自分だからこそ、この点は一つ勝負していけるポイントだと感じた。

次に、参加者は大きく「頻繁に質問する人、全会を通じて一回だけ質問する人、一度も質問しない人」という3タイプに分かれる事が分かった。経験上、プレゼンに興味を持って集中して聴く事ができていれば、一つのプレゼンに対して必ず一つは疑問が湧くものである。したがって興味のマッチする学会に参加できているのであれば(わざわざ遠方まで出向いて貴重な数日を投じているのだからこの判断は正確なものでなければいけないが)、必然的に頻繁に質問する事になる。なので2番目や3番目のタイプの人たちは、集中して話を聴けていないと推察される。理由としてはいくつか考えられるが、まずは上記のようにプレゼンの話し手に問題がある可能性が考えられる。話し手が聴き手を引き込むような話し方をできていないせいで、興味が薄れ集中力が切れてしまうのである。良いプレゼンの後には質問が相次ぐものなので、質問があまり出なかったら、このパターンが発動したと見てよいだろう。今回の学会でも多々見受けられた。

ただ、聴き手の側にも全く落ち度がないわけではない。興味のある論文は予習していったり、「絶対に何か質問するぞ」と前のめりに話を聴くといった少しの心がけで、プレゼンは何倍も楽しいものになる。今回の自分の経験では、「元々強い興味がなかったので予習していなかったが、プレゼンが上手だったので集中して聴けた結果疑問が湧き、質問しようとできた(が時間不足で順番が回ってこなかった。これは多くの質問を誘発した話し手側の成功の証左でもある)」というパターンと、「興味があり予習していたため、プレゼンは上手ではなかったが集中して聴けた結果、聴きながら疑問が湧き実際に質問できた」というパターンがあった。そのため、話し手か聴き手かいずれか一方でも努力すれば、プレゼンは楽しいものになるのではないだろうか。1番目のタイプの人たちは、そうした小さな努力を数十年間積み重ね続けている人たちなのだと思う。そういう人たちは実際研究面でも業績が素晴らしいし、研究者としてのロールモデルである。かくいう自分は質問が1回、質問未遂が1回と、結果として2番目のタイプに分類されてしまう存在である。このタイプの人たちは、一番興味の湧いた論文だけしっかりと予習して臨んで集中して聴き、後は内職したり何となく聴いたりしている可能性が高い。でも3番目のタイプの人たちとは違うのは、「せめて一度は発言しなければ参加している意味がない」という危機感を持っている事だと思う。自分は初の対面学会である前回から2番目のタイプとしてキャリアをスタートさせ、今回は1番目のタイプへの昇格を試みたが惜しくも2番目のタイプに残留してしまったので、次こそ1番目のタイプへの昇格入りを目指したいと思う。

後ろの席から質問するよりも、思い切って最前列に座る方が質問しやすい。

2023年春学期振り返り

今期もApplied Theory、Pure Theory、サブスタンス、計量とバランスよく4科目を履修した。

Voting and Elections

選挙のモデルを体系的に学習するApplied Theory科目。一般に、決定版と言えるような教科書があるほど成熟した分野は教科書を通じて体系的に学習するのが効率的であり、したがって輪読というのは「まだ教科書がない発展分野を、なるべく体系的に把握しようとする試み」だと思う。しかし実際の輪読の授業は往々にして体系性への意識が低く、「あるテーマに関する論文を何となく色々読んだものの、結局全体を通じて何を学んだか分からない」という事になりがちである。だがこの授業は各トピック間の関係性も、各トピック内での論文の関係性も意識された、体系性への意識が強い輪読だった。私も将来輪読の授業を担当する時は、この授業のように体系的な授業を目指したいと思う。

授業のもう一つの特徴は、「メカニズムの直観的な説明」を重視していた事である。これに関して印象的だったのは、数学が得意な学生ほどプレゼンで式展開を提示して「これが直観的な説明」と言うのだが、それが何を表現しているかを言葉だけで説明しろと言われると、言葉に詰まっていたという事である。数理政治学である以上数学的に厳密である事は当然重要なのだが、理論は直観的に説明できて初めて本当に理解したと言える。この点は以前から意識していた点だが、この授業を通じて、論文を読み書きする時やプレゼンをする時により強く意識するようになった。同時に、自分は周囲の学生ほど数学が得意でないぶん、得意分野である国語力が活かせる直観的な説明という要素は、自分が勝負できる部分だと感じた。

授業の具体的内容について私が感じたのは、選挙の理論研究が持つジレンマである。選挙には「有権者の選好を集約する」という側面と「政治家のアカウンタビリティを維持する」という側面があり、後者については単一のRepresentative Voterを仮定して政治家との関係を考えるという単純化を行う事が多いのに対して、前者については選好の集約を考えている以上、多数の有権者をそのままモデルに登場させる事になる。そこで起きる問題は、「一人一人の有権者が結果を左右する可能性は限りなく低いが(いわゆる投票のパラドックス)、そうするとどのように投票しようが結果に影響を与えないのでどのような投票も最適反応になってしまい、結果として非常に多くの面白くない均衡が出てきてしまう」という問題である。そのため有権者の戦略性を分析する多くの研究は、各有権者が結果を左右する(pivotalである)状況に着目する事で、その下で有権者がどのような投票をすべきかという面白い問題を分析する。だが現実にはそのような事はほとんど起こらないので、そのアプローチは理論的面白さと引き換えに、現実性を犠牲にせざるを得ない。この「理論的面白さと現実性のジレンマ」というのは他のトピックでも生じうる問題だが、非常に多くのプレイヤーが参加する選挙は、この問題が最も顕著に表れるトピックだと思う。このジレンマを乗り越えるために様々な研究は、政党などのcoordination device 協調装置を使って(結果を左右する程度に大きな)集団として動くモデルを考えるか、合理性を一定程度修正したBehavioralなモデルを考えるか、もしくはいっそ合理性を放棄してsincere voting(一番好きな候補者に正直に投票)を仮定するといった工夫をするわけだが、結局の所これらは「個人合理性と選挙との相性の悪さ」を示していると思う。これらの工夫自体はいずれも現実的なものだと思うので、各有権者が合理的に行動するというモデルを追究するのは諦め、いずれかの仮定の下で候補者の合理的行動を分析するというのが、選挙研究において理論的面白さと現実性とを両立するための方向性なのかもしれない。

Advanced Formal Methods in Political Economy 

ゲーム理論シークエンス最後の授業であるPure Theory科目。例年はSocial Choice, Bargaining, and ElectionsというApplied Theory科目なのだが、今年は類似した科目が他に開講されているためPure Theoryに変更され、名前も新しくなった。内容は、Real Analysisを使って様々な形式のゲームの均衡存在を証明するというものである。有名なナッシュ定理は「有限戦略・同時手番のゲームの均衡存在」を保証しているが、戦略が無限(連続区間など)である場合や逐次手番の場合に均衡がある保証はない。実際、シンプルなのに均衡がないゲームというのも存在する。したがって、どのようなモデルであれば均衡が存在するかを認識するのは応用理論家にとっても重要な事である。均衡の存在を証明する際に使われるのが不動点定理(ある戦略の組に対する最適反応が、その戦略の組自体になっているという意味で不動)であり、不動点定理を適用する際に必要な条件として、continuity 連続性, compactness コンパクト性, convexity 凸性といったReal Analysisの概念が登場する*1。これが数理政治学者がReal Analysisを勉強する理由であるが、この授業は一言で言えば、実際にそれらを使って見せる事でReal Analysisの有用性を示してくれるデモンストレーションだった。どれくらいそれらの概念を使うかというと、約130ページの講義ノートを単語検索するとcontinuousが286回、 compactが261回、convex が104回登場するほどで、平均して1ページに1~2回は使われている計算である。これらの概念がいかに重要であるかを嫌というほど見せつける事で、来期に経済数学の授業を通じて本格的に学習する前に、モチベーションを高めてくれる授業だった。

このように、数学をどうゲーム理論に応用するかという面では素晴らしい授業だった一方、数学自体の説明に関しては、先生が数学の専門ではないゆえに直観的な説明が十分でなく、説明が形式的で無味乾燥に思えてしまう事も少なくなかった*2。来期に受ける経済数学の授業では、直観的な理解が得られる事を願いたい。その意味では、この授業の弱点がかえって来期の経済数学の授業へのモチベーションを高めてくれたという肯定的な見方もできる。

American Political Institutions

アメリ政治学のコア科目の1つで、アメリカの各政治制度について毎週レビュー論文+代表的な論文を数本読むという内容だった。授業の特徴としては、先学期のBureaucratic Politicsとは反対にプレゼンが全くなく、その分すべての論文について議論のための論点をまとめた1ページのメモを毎週提出したという点である。先学期がプレゼン準備を通じて毎週1本の論文を深く読むというスタイルであったのに対して、今学期は全ての論文に均等に時間を割くという対照的なスタイルである。プレゼン準備というのは論文を最も深く読み込む機会になるので先学期のフォーマットも個人的には好きだったが、サブスタンスを学ぶという授業目的からすると、一つ一つの論文を方法論的に深く検討するよりもサブスタンスに関する議論に集中して出来るだけ多くの論文に触れる方が良いと思うので、今学期の方式は大学院でのサブスタンスの授業として最適なフォーマットの1つだと感じた。将来自分が同様の授業を担当する事になった場合は、この授業が参照点になると思う。

個人的なもう1つの特徴は、「自分以外の先生・学生の全員がアメリカ人・アメリ政治学専攻」という点だった。だが意外にも、この点に気が付いたのは学期が始まってしばらくしてからだった。それくらい自分が例外的存在である事を意識せず一参加者として普通に参加できていたという事だと思うので、この点は自信に繋がった。来期のアメリカの政治行動論の授業でも同じ状況が続くので、この1年を通じてアメリカ人とアメリカ政治について対等に議論できる人間を目指したいと思う。

この授業で書いたリサーチプロポーザルを通じて、博論の一章として取り組みたいと思っているテーマについて方向性を定める事もできたので、先学期のBureaucratic Politicsと同様、授業の内容自体とは別の点で得るものが多い授業だったと思う。

Causal Inference

スタンダードな因果推論の授業。この授業を通じて痛感したのは、「計量・数理のうち、自分が専門にしない方ほど修士課程までに基本的な事をしっかり勉強しておくべき」という事である。博士課程に入ると何事も研究に繋げる事を常に意識するようになるため、自分の研究に直接関係ない内容への興味が薄れる事は避けられない。幅広い事に興味を持てる修士課程までに博士1年レベルの基本的な手法を既に勉強していれば、博士課程では専門と異なる手法を受講せずに済むし、たとえ必修科目が免除されず受講する事になったとしても、復習なのでそこまで苦労する事なく自分の専門の強化に集中できる。逆に専門ではない手法への準備が不足していると、モチベーションが低下した状態で慣れない分野を勉強しなければならなくなるので非常に大変である。私の場合は理論家志望なので、修士課程までよりも計量に対するモチベーションが下がっている事を実感した*3。これを見越して修士課程の間に計量経済学を聴講してはいたのだが、今よりも計量へのモチベーションが高かった学部や修士課程のうちに、よりしっかりと計量の学習をしておけば良かったと思う。将来的に日本の大学の計量政治学・数理政治学のカリキュラムが充実していけば、個人が意識的に頑張らなくても自然と基本が身についているという経済学に近い状態になると思うが、今はまだ自助努力で補わねばならない部分も大きく、しかもその場合は自分の専門に労力を傾けがちなので、「自分の専門ではない手法ほど修士課程までに基本をしっかり勉強しておくべき」という点は強く意識すべきだろう。

 

今期を総じて見ると、一番記憶に残っているのはAdvanced Formal Methods in Political Economyで自らの数学力の低さを痛感し、数理政治学者として本当にやっていけるかと度々不安になったという事である。だがその分Voting and Electionsの授業で書いたリサーチペーパーは、聴き間違えでなければ「クラスで一番の出来」という評価を頂く事ができ、「たとえPure Theoryが得意でなくても自分はApplied Theoryでは競争力があるかもしれない」と言い聞かせる事でモチベーションを維持していた*4。Applied Theoryにおけるセンスというのは、数学力のような分かりやすい能力とは異なるので自信を持つことは難しいし、トップジャーナルに論文を何本かパブリッシュできて初めて自らの適性に確信を持つ事ができるのだと思う。この夏からはいよいよ2nd-Year Paperに着手し本格的に研究が始まるので、自らの存在意義に対する不安を払拭するためにもなるべく早く業績を挙げたい。

*1:不動点定理にそれらの概念が登場する理由は直観的には分かりづらいが、ゲームではなく個人の意思決定の場合なら比較的わかりやすい。個人の効用最大化を考える時には「実数値連続関数は非空なコンパクト集合上で最大値を持つ」事を示す極値定理が使われるが、これは直観的には「境界を含む限定された範囲で定義された連続な関数は、その範囲内のどこかで最大値を達成する」という事を意味しており、これは図を書いてみれば納得できると思う。補足すると、実は極値定理自体もゲームの均衡の存在を証明する際に使う事がある。シンプルなProposer-Receiverゲームを考えよう。ProposerはReceiverがアクセプトする範囲で自らにベストな提案をするが、これはProposerによる効用最大化問題と言い換えられるので、効用関数が連続で「Receiverがアクセプトする範囲」が非空かつコンパクトなら、このゲームはサブゲーム完全均衡を持つことになる。

*2:一口に数理モデルと言っても抽象度にはいくつかのレベルあり、数学→ゲーム理論→応用理論と抽象度が下がっていく。中心的な例を挙げると、数学者が他の数学的定理を応用して不動点定理を証明し、ゲーム理論家が不動点定理を応用して一般のゲームの均衡存在定理を証明し、応用理論家が均衡存在定理を応用して特定のゲームの均衡存在を証明する、という関係になっている。さらに言えば応用理論を実証するのが実証研究者であり、その知見を現実の政策に応用しているのが実務家である。このように、「数学」という最も抽象的な対象から「現実」という最も具体的な対象の間には、それらを結びつける形で抽象度の異なるいくつもの営みが存在し、人はそれぞれ自分に適した抽象度の営みを選ぶ事で役割分業が成されている。したがって、応用理論家がゲーム理論の授業を担当する事はあるが、ゲーム理論家に匹敵するクオリティーの授業をする事は難しいし、今回の授業のようにゲーム理論家が数学の授業をする場合も、数学者ほど深い説明ができないのは仕方のない事である。

*3:先学期も同様の事は感じていたが、授業があまりに酷いゆえにモチベーションが下がってしまったという可能性も否定できなかった。だが今期の授業は良い授業だったと思うので、これは自分の側にも問題があると認めざるを得ない。とはいえ先学期に下げられてしまったモチベーションが今期にも影響しているという可能性も考えられるし、これらを因果的に識別するのは難しそうである。

*4:大学院の緩い成績評価なので自分の達成度としてどこまで信用していいのか分からないが、Advanced Formal Methods in Political Economyも一応Aを取れて安堵した。

「Formal Theory=方法論」という誤解

「Formal Theory=方法論」というのはよくある誤解だが、この根源にはアメリ政治学と比較政治学アメリカ以外の政治)を区別するというアメリカの政治学の特徴が関係していると思う。その理由を説明するために、少し遠回りしてFormal Theoryという分野を取り巻く状況を考えてみよう。

Formal Theoryは大学のカリキュラムで基本的に方法論という扱いを受けており(ロチェスター大学ですらそう!)、そこではPure TheoryとApplied Theoryとが区別されていない。だが、前者は個人の意思決定、社会的選択理論、ゲーム理論といった政治学にも応用可能なミクロ経済学の一部、及びその基礎にある数学を指しており、後者はそれらを応用した国内政治・国際政治の理論を意味している。こう説明すれば明らかであるように、Pure Theoryは方法論、Applied Theoryはサブスタンスである。

これらを混同する事で何が起きるかというと、まずは「Formal Theory専攻=サブスタンスに関心がない」という誤った先入観である。そもそも数理という方法論にしか関心がないなら経済学部に入ってミクロ経済学者を目指すのだから、政治学部でFormal Theoryを専攻している時点で、政治のサブスタンスに関心がある事はほとんど自明のはずである。しかし残念ながら、就職活動においてFormal Theory専攻はこうした誤解に頻繁に直面するようである。

そこで対策として必要なのが、「サブスタンスの専門性の強調」である。国際政治の理論家ならこの点で苦慮する事はないが、問題は国内政治の理論家である。アメリカではアメリ政治学と比較政治学を区別している以上どちらかを選ぶ必要があるが*1、そもそも数理モデルというのは一般性の高い理論を構築するためにあるので、アメリカ政治にしかあてはまらない理論に興味があるというのは、Formal Theoristとして自然なスタンスではない。では比較政治学を専攻すればよいかというと話はそう単純ではなく、「比較政治学は実証研究中心の分野」とされているため、比較政治学の授業では実証研究を中心に教える事になり、比較政治学の就職では実証研究者が有利になる。そのため、授業で理論研究と実証研究をバランスよく紹介する事も少なくなく、分野として比較的理論を重視しているとされているアメリ政治学の方が、Formal Theoryとセットで専攻しやすいのである(実際、私が知る限り「比較政治学×数理」よりも「アメリ政治学×数理」という人の方が多数派である)。だがこの選択は、アメリカ政治だけでなく国内政治一般に興味があるという多くのFormal Theoristにとっては、ベストな選択とは言い難い。

このように比較政治学はFormal Theoryと相性の悪い専攻になってしまっているわけだが、ではそもそもなぜ「比較政治学は実証研究中心の分野」なのだろうか。それは、Formal Theoryを独立した分野として扱う事で、残された実証研究が必然的に比較政治学の中心を占めるからだと考えられる。ではなぜFormal Theoryを独立した分野として扱う事になったのだろうかという疑問が次に湧くが、それは、「アメリ政治学と比較政治学を区別する」という慣習が原因だと思われる。すなわち、一般理論の構築を目指すFormal Theoristにとって、アメリ政治学と比較政治学を区別する事には違和感がある。そこで、両者の理論を統合するためFormal Theoryを独立した分野として扱う必要が生じたのではないだろうか(実際、両者の理論を統合して紹介するFormal Models of Domestic Politicsという教科書が書かれている)。この議論が正しいのであれば、そもそもFormal Theoryという分野は国内政治の理論がアメリ政治学と比較政治学に分断されてしまうのを避けるために生まれたにもかかわらず、その名称から方法論的な分野であるという誤解を受けているせいで、結局アメリ政治学か比較政治学かどちらかを選ばないとサブスタンスの専門性を強調できないという皮肉な事態に陥っているのである。

ではこの事態を解決するにはどうすればよいのだろうか。一番手っ取り早いのは、「アメリ政治学と比較政治学を区別する」という慣習を撤廃する事である。そうすればFormal Theoryを独立した分野として扱う必要はなくなるので、現在Formal Theoristと呼ばれている人たちは国内政治・国際政治の理論家と呼ばれるようになり、方法論的な関心しかないという誤解を受ける事もなくなるだろう。だがアメリカ政治はアメリカにとって自国の政治であるだけに関心も高く、先行研究も多いので、この縦割り区分を解消するのは容易な事ではないだろう。であるなら、次善策はやはり「Formal Theory=方法論」という誤解を解く事である。Formal Theoryはあくまでもサブスタンティブな分野であるという理解が浸透すれば、Formal Theory専攻の学生はアメリ政治学or比較政治学という理不尽な選択を迫られずに済むし、就職活動も随分スムーズなものになるだろう*2

だがこれはあくまでもアメリカ特有の次善策であって、国内政治研究がアメリ政治学とそれ以外という様に分断されていない国では、そもそもFormal Theoryを独立した分野として扱う必要はなくなる(ここから他国が得るべき教訓としては、自国政治を特別扱いしたくなる誘惑を抑え、あくまでも国内政治の一般理論の中に位置づけるべきという事だろう)。「国内政治」「国際政治」という2区分を前提に、さらにテーマごとに分けるのが自然なサブフィールドのあり方だろう。あるいは、国内政治と国際政治にまたがるテーマの関連性を重視するなら、Duke大学のサブフィールド区分は納得のいくものだと思う。比較政治学の中からアメリ政治学と対応する「政治制度論」「政治行動論」を取り出して合併し、残された「比較政治経済学」「内戦」をそれぞれ国際関係論の中の「国際政治経済学」「国際安全保障」と合併して「政治経済学」「安全保障論」というサブフィールドとして再編している。(政治哲学と政治学方法論はそのまま。)「アメリ政治学」「比較政治学」「国際関係論」という伝統的な区分よりも、「政治制度論」「政治行動論」「政治経済学」「安全保障論」という区分の方が、政治学がどのような内容を研究しているのか一目瞭然である。多くの大学がDuke大学と同じ区分を採用してくれるのが理想的だが、残念ながら伝統的な区分の採用がナッシュ均衡となっている現状では、一校だけ逸脱しても学生が就活で割を食ってしまう。いつかDuke大学を筆頭とする大規模なCoordinationが起きる日は来るのだろうか。

*1:両方選ぶ事も不可能ではないと思うが、少なくとも私はそういう人を見た事がないし、両方中途半端な知識しか持っていないと思われる恐れがあるので良い選択ではないのだと思う。

*2:さらに言うと、アメリカにおけるサブフィールド区分のうちPolitical TheoryもFormalなものを指すようになるのが望ましいと思う(例: 早稲田のHun Chung先生)。これは哲学的アプローチが無意味だからではなくて、そうした哲学的アプローチの研究は哲学部にも居場所があるし(実際、アメリカの大学の哲学部を見ると政治哲学が専門の先生も所属している)、政治学のその他のサブフィールドよりも法哲学宗教哲学といった他の哲学的分野の方が政治哲学とシナジーがあると思われるため、社会科学としての政治学を発展させるというアメリカの政治学部のスタンスを考えた時、Political Theory=Formalな規範理論とする方が、学部としての一貫性があると考えられるからである。なお、日本の大学は政治史・政治哲学といった人文科学的な政治学政治学科に共存する形を取っており、これはこれで一つのあり方だと思う。上の提案はあくまでも、社会科学としてのPolitical Scienceにコミットしているアメリカの政治学部に対する提案である。

応用理論とは何か

現在は実証研究中心の時代と評される事が多い。だが経済学においては理論研究中心の時代を経て、現在は実証研究がキャッチアップしている時代と考えれば、長い目で見ればこれは必ずしもアンバランスなトレンドとは言えないと思う。一方、体系的な理論をさほど発展させてこなかった政治学が経済学の真似をして実証研究ばかり推進するのは、アンバランスであると言わざるを得ない。どんな分野においても理論研究と実証研究の両方があって科学的営みが成り立つ事を考えれば、現在の政治学の異常性は明らかだろう。このように、現在の政治学のトレンドには危機感を覚えざるを得ない。だがそれに留まらず、政治学理論研究におけるトレンドにも憂慮すべき点があると思う。ここからが今回の本題である。

私はApplied Theorist(応用理論家)を志望しているので、Applied Theoryとはいったい何かと考える事が多い。恐らく一般的な理解としては「Pure Theoryを何らかの文脈に応用することで、その文脈において現実的に重要な発見を行うこと」といった感じではないかと思うのだが、最近の研究を読んでいて頻繁に思うのが「理論的発見があまりになさすぎるのではないか」という事である。

私の理解では、Pure Theoryにおける貢献というのは文字通り純粋に理論的なものであり、その貢献がある程度大きな(一般性の高い)ものでなければ理論的貢献とは認められないのに対して、Applied Theoryにおける理論的貢献は小さな(一般性の低い)ものでもよく、その分その小さな貢献が、応用している文脈において現実的に重要な意味を持っていなければならないのだ思う。言い換えれば、Pure Theoryは理論的貢献が全てであるのに対して、Applied Theoryは「理論的貢献+現実的重要性」の合算で評価がなされるのではないかという事である*1。ここで重要なのは、とはいえApplied Theoryも理論である以上、さすがに理論的貢献が皆無ではまずいであろうという点である。単に既存のPure Theoryに新たなラベルを貼って同じロジックを焼き直しするだけでは、「応用」であっても「応用理論」とは言えない。それなら新たにモデルを組む必要はないので、「Pure Theoryからこういう仮説が導かれるのでそれを検証します」と言葉で説明して実証研究に進めば事足りてしまうだろう。

最近授業で80年代90年代に書かれた政治学の理論研究を読む機会が多いのだが、経済学の理論研究のようにしっかりと理論的貢献を行っている研究に出会えることが多い。それに対して最近の政治学の理論研究を読むと、トップジャーナルの論文であれ分野の有名人が書いた論文であれ、「一見大きな貢献をしているように売り込まれているものの、よく読んでみると既存の理論のロジックを焼き直ししているにすぎず、一生懸命読んだのに大した学びがなくがっかりする」という事が多い。私には、この現象と「そもそもApplied Theoryとは何かという事に対する共通理解の欠如」が関係しているように思えてならない。

Applied Theoryもまた理論研究である以上、既存のPure Theoryの含意として直接的に導くことのできない何らかのロジックを発見する必要があり、その営みは単にPure Theoryを文脈に「応用」する事とは区別されるべきである。政治学の現在のトレンドは「研究の貢献を言葉でわかりやすく説明する事」を重視しており、それ自体は全く悪い事ではない。むしろ言葉でわかりやすく説明できて初めて自らのモデルを完璧に理解できたと言えるので、そのトレンドの意図には共感できる所がある。だがこうしたインフォーマルな論文のスタイルが、理論的貢献の欠如をごまかし、理論的発見とは言えない「応用研究の結果」を(往々にして誇大に)売り込む事に繋がっているとすれば、政治学の理論的発展にとって大きな妨げであると言わざるを得ない。

もちろん私が今まで読んだ研究は昔の研究も近年の研究もそれらのごく一部にすぎず、今後勉強が進むにつれて認識が変わる可能性は大いにあると思う。だが博士課程1年目の現段階で感じているのは、現在が「政治学理論の氷河期」であるという(当たってほしくない)予感である。逆に言えばそうしたトレンドに左右されることなく正統派の応用理論研究ができれば、分野における自らの研究の重要性は(たとえ同時代の多くの研究者に今は理解されなかろうと)確かなものになるだろう。その目的を遂行するのに最も適した大学で勉強している以上、自分にはそれを目指す義務があると思う。

*1:言い換えれば、理論的新しさを追究するPure Theoryと現実の理解を試みる実証研究の間にあって、Applied Theoryは理論的新しさと現実性の両立を目指す営みと言えるかもしれない。

ミーティング記録② 鎌田雄一郎先生

このブログは主に留学中に記録に残しておきたい事を投稿しているのだが、授業やカンファレンスに加えて1対1のミーティングの記録も残しておこうと思う。

前回の投稿からわずか1週間で2回目の投稿をするとは思っていなかったが、今回は本当に初対面であるBerkeleyの鎌田雄一郎先生とのミーティングについてである。鎌田先生は日本人で最も活躍されているゲーム理論家のお一人なので、数理政治学専攻の人であれば知らない人はいないだろう。

お話した内容は”Squid Voting Game: Rational Indecisiveness in Sequential Voting”という先生のワーキングペーパーについてで、一言で言えば「Swing Voter's CurseをSequential Votingに拡張した場合にどのような事が生じるか」という論文である。Swing Voter's Curse(浮動投票者の呪い)とは「有権者全員の利益が一致している状況下では(この仮定は重要)、良い政策が分からない有権者は、良い政策が分かっている有権者に判断を委ねるために棄権する事が合理的である」という議論である。オリジナルの論文(Feddersen and Pesendorfer 1996)は有権者同時に投票する状況を考えているのだが、上の論文は投票を順番に行う場合に新たにどのような考慮が生じるのかを考えている。重要な結果としては、良い政策が分からない投票者には「これまでの投票の多数派が良い政策を反映している可能性が高いので、多数派に合わせて投票しよう」というインセンティブと、「良い政策が分からない以上、投票結果が確定してしまわないように今までの投票の少数派に投票して、後続の投票者に判断を委ねよう」という相反するインセンティブが発生するという点である。*1

ここで少数派に投票する際に気を付けなければならないのは、「あえて少数派に投票するという事は、この人は良い政策が分かっているのではないか」と後続の投票者が勘違いし、正しい選択であるか分からないにもかかわらず、その人の投票に追随してしまう可能性があるという点である。これは理論的には面白い指摘であるのだが、もし投票と共に「自分は良い政策が分かって投票している」もしくは「分からないで投票している」というメッセージを発すれば、投票者全員の利益が一致した状況を考えている以上そのメッセージは信憑性があるので(専門的にはチープトークにおける分離均衡が可能なので)、そのような誤解を与える心配はないのではないかというのが、私の主な質問であった。

先生の回答としては「それはもっともな指摘である一方、そうしたメッセージを発する事が可能だとしてもそれをしない状況(専門的には一括均衡)もありうる」というものだった。ゲーム理論の分析というのは合理的に発生しそうな状況をある程度絞り込むことはできるのだが、どれが一番もっともらしい状況かという事まで言い切れないことも多いので、最後はどれが現実的かという話になるのだが、私の指摘は「現実的にはその状況はもっともらしくない」というものであるのに対して、先生の返答はそれを認めたうえで「理論上はそういう状況もありうる」というものなので、お互いに間違った事を言っているわけではない。ここが純粋理論家と応用理論家の感覚の違いなのかもしれない。Pure Theorist (純粋理論家)にとっては現実的であるかよりも理論的発見として面白いかが重要である一方、Applied Theorist (応用理論家)はそれが現実の理解に役立つかどうかを重視する傾向があるので、そうした意見の相違は不可避だし悪い事でもないだろう。

ともかくこうした生意気な意見をふっかけた若者にも真摯に対応下さり、その他のアドバイスも下さった鎌田先生に感謝したい。理想的にはもっと理論を勉強して自分の研究も進んだ状況でお会いできればよかったが、今後のキャリアで再び得られるか分からない貴重なミーティングの機会だったので、勉強不足を承知で思い切って話しに行ってよかったと思う。次にPure Theoristの方とお話する際にはPure Theoristも唸らせるようなもっと深い議論ができるよう、理論をしっかり勉強しようというモチベーションが高まった。それが今回のミーティングで最大の収穫かもしれない。

*1:この論文では棄権という選択肢はないと仮定されている。棄権を含めたモデルも拡張として議論されているが、恐らく理論的に面白いのが棄権ができない場合であるため、そちらをメインのモデルにしているのだと思う。

恩師との初対面 (Professor Scott Gehlbach)

「恩師との初対面」とは何事だと思われたと思うので訳を説明すると、今日お会いしたのは私がシカゴの修士課程でお世話になった先生で、パンデミック中のためオンラインのまま修士課程を終えた私はZoomやメールでしかやり取りした事がなく、直接お会いしたのは今回が初めてという事である。先生はこのブログアカウントのアイコンにもしているバイブル的教科書の著者で、私がシカゴ大学に進学する理由となった先生である。そのため先生がロチェスターに講演に来ると決まってから、ずっと「初対面」を楽しみにしていた。

まずは、先生が自分の事を認識してくれていたのが嬉しかった。(私のことを忘れていたが1体1のミーティングが決まり慌てて私とのやり取りを見返したという可能性はあるが、そうだとすれば、出張前の忙しい時に自分のためにわざわざその労力を払ってくれた事を喜ぶことにしよう。)修士課程をオンラインで終えた私にとってシカゴでできた人脈というのは先生くらいなので、念のため用意していた「実は私元教え子です」という悲しい自己紹介を披露せずに済んだのは幸いだった。

ミーティングに向けては、教科書の新版、自分の研究アイディア、シカゴの新しいPolitical Economyプログラム、(先生は東欧がご専門なので)ウクライナ・ロシア戦争についてなど様々な話題を用意していったのだが、ビジターとの初めてのミーティングという緊張からかあまりにも早口で話してしまい、用意された30分間の終了を待たずにそれらのトピックを早々に使い果たしてしまった。素直にそう伝えると先生は笑って最後に握手してくれ、私は部屋を後にした。

あまりにも短時間だったので(自分でそれに拍車をかけたのだが)やり取りの中から実質的な収穫を見出すのは難しいが、強いて言うならシカゴのPolitical Economyプログラムのカリキュラムの詳細が気になっていたのでそれを聞けたのは良かった。だがそれよりも、先生とはキャリアを通じて長期的に付き合いを続けたいと考えているので、先生との関係を一歩前進させることができたという事が最大の収穫だろう。次お会いする時は時間がオーバーしそうになるほど白熱した議論ができるよう、研究者として成長しておきたいと思う。

留学お役立ち情報②リーディングの戦略

計量・数理政治学者であれば読む文献は英語が主となるため、効率的に英語を読む戦略を見つける事は重要である。また交換留学や大学院留学においてもリーディングをする時間はかなりのウェイトを占めるから、リーディングにうまく対処する事が留学の充実を決めると言っても過言ではない。研究におけるリーディングであれ、授業におけるリーディングであれ、基本的な戦略は変わらないと思う。

前提として、私は京大での指導教員が執筆した以下の記事から影響を受けており、ここに書かれている事には基本的に賛同している。記事では「何をどの程度読むのか」「どのように読むのか」「1つの文献と他の文献の関係をいかにして読むのか」という3点について書かれているが、英文特有の事情については述べられていない。したがってここでは「どのように英文を読むのか」という点について、私自身の考えを述べてみたい。

http://www.yuhikaku.co.jp/static/shosai_mado/html/1409/07.html

http://www.yuhikaku.co.jp/static/shosai_mado/html/1411/05.html

http://www.yuhikaku.co.jp/static/shosai_mado/html/1501/06.html

 

1.スキミングとは何か

まずはよく耳にする「スキミング」とは何かを考えてみたい。「流し読み」の事では?と思いがちだが、流し読みで英文から要点を得るのは至難の業だと私は感じている。それは1つには私がノンネイティブだからであり、もう1つには英語自体が流し読みに適していない言語だと感じるからである。

日本語は主に表意文字であるのに対し、英語は表音文字である。つまり、漢字を多用する日本語の文章はざっと見ただけで何となく内容が伝わってくるが、英語は一つ一つの文字自体には意味がないためパッと見では何が書いてあるか分からない。したがって、英文の場合は恐らく、読んだ時に無意識に脳内で音声が流れる事でようやく意味が入ってくるのだと推測される。人間の脳は視覚処理より音声処理の方が遅いらしいので、流し読みでは英文の音声処理が追いつかないのかもしれない。

このように英語は元々流し読みに適さない言語であると推測されるが、さらに自分がノンネイティブであるゆえに処理速度が遅いのが重なって、流し読みというのはかなり難しい技だと感じる。したがって、スキミングとは流し読みではなく「飛ばし読み」の事だと捉えるのが妥当、というのが私の考えである。(言語学脳科学の専門的知見に基づくものではなく私の実感に基づく私見なので、間違いがあればぜひ教えて頂きたい。)

 

2.通読一元論から通読・スキミング二元論へ

スキミングとは飛ばし読みであると述べたが、具体的には本の章や論文の「Introductionを読んだ後、間の図表を見つつ、Conclusionに飛ぶ事」と定義する。この3箇所が一番要点のまとまっている箇所であるため、こうすることで通読にかかる時間の5%しか使わず、通読で得られる情報の50%程度を得る事ができる。内容に強い興味が湧かない場合、無理に通読しようとすると漫然と読んでしまうので、要点が頭に残らず「結局何が言いたい文章だったっけ?」となりがちである。したがって、興味の無い文章はスキミングで要点をおさえる事に集中した方が、かえって得られるものは多くなる。

日本人で留学する人は真面目な人が多いので、ついつい何でも通読しようとしてキャパ越えするというのがよくあるパターンである(経験済み)。それは恐らく、「スキミング=サボり」という先入観からくるのではないだろうか。そうではなく、自分にとって重要度の低い文献をスキミングで効率よくさばいて浮いた時間を、重要度の高い文献をじっくり理解するために充てられると考えれば、スキミングは決してサボりではなく、(成績のためにも自分の学びのためにも)効率的戦略であると言える。大事なのは「どれだけ読んだか」ではなく「どれだけの学びを得たか」であり、形だけ多くの文献に目を通しても全く意味はない。(自分がその文献から何を学んだか確かめるためには、その文献をなるべく見返す事無く要約してみるのがいいだろう。)効率よく学ぶためには、限られた時間とエネルギーを興味のある文献に集中させるべきである。

授業におけるリーディングでこの戦略を使う前提として、できるだけ興味を持てる授業を選ぶ事で、通読・スキミング二元論を採用したとしても自然と通読するものが多くなるようにする事は重要である。しかし興味がまだ固まっていない学部生であれば「面白そうだと思って取った授業が思っていたのと違った」というエラーが起きるのはやむを得ないし、自分の興味を自覚していて精度の高い科目選択ができる大学院生であってもリーディングの全てが面白いという事はまずないので、関心の持てないリーディングを上手くさばく事は重要だと思う。研究におけるリーディングなら、何でもかんでも通読していてはキリがないのでなおさらである。

なおトピックセンテンスを「拾い読み」するというのも通読とスキミングの中間として存在するが、経験上「興味があるか無いか」という2択の方が分かりやすく実効的なため、今の所は通読とスキミングの2つに絞っている。 

 

3. ネイティブの文章≠良い文章

通読する文章を選ぶ基準として、上に挙げた「自分の興味とのマッチング」という主観的基準に加えて、良い文章(論理的にクリアでかつ無駄の無い文章)を厳選するという客観的基準も大事だと思う。

日本人でも日本語の良い文章を皆が書ける訳ではないように、英語ネイティブならライティング力があるというのは誤った先入観である。確かにセンテンス内での単語の選択や順番といったミクロなレベルでの文章力ではネイティブには中々敵わないが、どういう順番でどのような文や段落を配置するかといったマクロな文章構成力は日本語でも英語でも全く同じなので、ネイティブもノンネイティブも関係がない。したがって日本語で良い文章を書ける人であれば多くのネイティブより良い英文を書けるポテンシャルを持っているわけだから、ネイティブの文章=良い文章という先入観は捨てて、ネイティブの文章であっても「ここ論理的に曖昧だな」とか「ここ冗長だな」などとツッコミを入れながら批判的に読む姿勢が大事だと思う。

こういう風に考えると、何でも通読しようとして悪い文章に付き合ってしまう事が時間の無駄であるのは明らかである。振り返ってみると、英語を読む際に日本語を読むのに比べて単純なリーディングスピードの差以上に時間がかかる事が多かったのだが、冗長な文章に疲れて集中力が切れがちになっていた事が原因ではないかと思う。そういう場合日本語文献であれば流し読みで柔軟に対処できるが、上で論じたように英語文献の場合はそれが難しいので、思い切って飛ばし読みに変更しない限りダラダラと読んでしまって時間を浪費する傾向がある。逆に、全くストレスなくスラスラと読める良い英文にも私は出会った事がある。そうした文章こそが我々読み手がじっくりと取り組むべき対象であり、書き手としても目指すべき目標だと思う。(この点は日本語の場合でも全く同じである。)

 

4.結論

以上の点を踏まえ、自分の興味のある文献(主観的基準)かつ良い文章(客観的基準)を厳選してそこに時間と労力を集中させ、他はスキミングでさばく事で、効率的で充実したリーディングができるのではないかと思う。具体的には、とりあえず通読するつもりで読み始めるが、Introductionを読んだ後にその文献が主観的基準と客観的基準の両方を満たしているかを検討し、そうでない場合はスキミングで要点だけをおさえる。ここで通読という判断を下した場合でも、読みながら判断が変わればその時点でスキミングに切り替える、という方法である。